哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 5

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

老子 上篇 第十四章

視ようとしても見えないので、なめらかなものと名付けられた。聴こうとしても聞こえないので、ほんの僅かな音と名付けられた。手で掴もうとしても手に入らないので、とても細かいものと名付けられた。この三つのものは、追求し尽くすことが出来ないので、混ざり合って一つのものになってしまう。それは上に存在にしても宝玉のように照り輝くことは無く、それは下に存在していても暗いかどうかもわからない。絶えない状態に対しては名付けようも無く、何も無いところへ再び帰って行く。これを姿の無い姿、物としての形の無い物と言う。これをぼんやりとして朧げなものと言う。来るのを待っていても頭は見えず、後ろから追いかけても尻は見えない。古からの「道」を守って行くことで、今存在する事態を治めることができ、古からの物事の始まりを知ることが出来る。これが「道」の要点である。

第十五章

古の優れた人物は、奥深い「玄」に通じており、その奥深さは世間では認識出来なかった。この奥深さは認識できないものだが、強引であるがその姿態を述べてみようと思う。落ち着きっぷりは冬に川を渡るかのようであり、慎重さは四方から何か来ないか絶えず用心しているかのようであり、厳かな様子は人を訪問する客人のようであり、ゆったりした様子は氷の溶け始めのようであり、その手厚さは切り出したばかりの新木のようであり、明るい様子は綺麗な水が流れる渓谷のようであり、人物の底が見えない様子は濁った水をたたえた深い池のようである。濁らせてからゆっくりと静かに清くすることができるだろうか。落ち着きしずめて少しずつゆっくりと時間をかけて動かして生命力を再び与えることができるだろうか。この「道」を守り続ける者は、満たされることを望まず、満たされることは無い。それは全てを包み込み、新たに織る必要の無い大きな布のようなものである。

 

 

続く