前回の続き
北渓字義 二十五章 鬼神(全39節)
二十五-3
天地の間
①どんな物にも陰陽が備わっている
②どんな所にも陰陽が存在している
①と②が成立するなら
鬼神はどこにでもあることになる。
神という字の意味→「伸びる」
伸びるとは気が今まさに長じている場合のこと。
鬼という文字の意味→「帰る」
帰るとは気が既に退いた場合のこと。
天地
天→陽で神
地→陰で鬼
四季
春と夏→気が伸びており神
秋と冬→気が屈しており鬼
昼と夜
昼→神
夜→鬼
日月
日→神
月→鬼
『周易』繋辞上伝「これを鼓するに雷霆を以ってし、これを潤すに風雨を以ってす」
→気が伸びていて神に属している。
気が縮んだ後にひっそりとして形跡がないのは気が帰ったので鬼に属している。
日
日が昇っている→神
正午以降次第に沈んでいく→鬼
月
三日月が明るくなる→神
十五夜以後→鬼
草木
枝や葉を生じる→神
枯れて落ちる時→鬼
潮が満ちてくる→神
潮が引く→鬼
気が伸びている場合→みな陽であって神に属している。
気が屈している場合→みな陰であって鬼に属している。
これが古の人が論じている鬼神だが、これから先は各自でよく研究して欲しい。
二十五-4
『礼記』礼運篇「人は、陰陽の交、鬼神の会なり」
→説き方が適切。聖賢の遺言であり、漢代の儒者が言えるようなことではない。
人は陰陽の二気を受けて生まれたのだから、この身体で陰陽で無いものは無い。
息は陽、血は陰。
脈は陽、体は陰。
上半身は陽、下半身は陰。
口の語黙、目がさめている寝ている、鼻息の呼吸、手足の屈伸
→陰と陽に分かれて属している。
人だけでなく万物もみなこのようになっている。
『中庸章句』「物に体たりて遺すべからず」
→陰陽の二気が、物の体となっていて、どこにでも存在していることを述べたもの。
天地の間
陰陽で無いものは一つとしてない。つまり鬼神を備えていないものは一つも無い。
二十五-5
『礼記』の祭義篇で宰我が孔子に鬼神について質問した一節があるが、これは説き方が良い。
→「気なる者は、神の盛んなるなり。魄なる者は、鬼の盛んなるなり云々」
『春秋左氏伝』昭公7年での子産の言葉「人の生、始めて化するを魂と為し、耳目の聡明を魄と為す」
→古の儒学の考えを得ている。
「始めて化す」
→胎内にほぼ、形が出来上がった状態。
人は最初、気を受けると、すぐに妊娠の状態になる→魄
魄が出来上がると、次第に活動を始める→この動くものは陽に属し魂。
形が出来上がると神が知のはたらきを現してくる。
だから人の知覚は魂、からだつきは魄に属する。
陽が魂
陰が魄
魂→陽の霊であり、気の英
魄→陰の霊であり、体の精
口鼻の呼吸→気であり、その活気のあるところが陽。
耳目の視聴→体であり、その聡明なところが魄。
二十五-6
『春秋左氏伝』昭公25年の「心の精爽、これを魂魄と謂う」
『淮南子』主術訓の「陽の神を魂と為し、陰の神を魄と為す」
魂魄=精神
精神
神→魂のこと
精→魄のこと
魂→陽に属しており神
魄→陰に属しており鬼
続く