前回の続き
北渓字義 二十一章 中庸(全2節)
二十一-1
庸を平常と解した。
中と別に庸があるわけではない。
中が外に現れ過不及が無いのが、日常の道理。
平常は怪異と相対している。
平常→人が常日頃から用いているもの。
怪異→人が今まで見たことが無いものを突然目にするもの。
以下のものは皆、平常の道理
父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信
尭帝、舜帝の譲位
湯王、武王の征伐
伯夷・叔斉の最後
言葉は忠信であり、行いは篤敬である
家では恭しく、仕事の時は敬である
人が常に行い、やめることが出来ないものが平常の道理。
平常だからこそ永久に行われ変えることが出来ない。
食べ物を食べたり服を着て生活をすることは出来ても、これを拒否して生活することはできないから平常。
平常とは変えることが出来ないという意味がある。
珍しい飲食物や衣服は一時は楽しめても常用はできない。常用しても必ず飽きてくる。これは平常ではない。
二十一-2
程子は『中庸章句』で「不易をこれ庸と謂う」と言った。もちろんこれでも良いのだが、庸の意味の完全な説明では朱子の平常であるという説の方がより明確である。
平常→不易の意味を含むことが出来る。
不易→平常の意味を含むことが出来ない。
平常と言っても不易と言っても実際は一つの道理である。
游酢の言葉
「中和は性情を以って言う」
→体と用、動と静を分けて説いたもの。
「中庸は徳行を以って言う」
→行いを兼ねて統合して説いている。
これで 二十一章 中庸 は終わり。
次は 二十二章 礼楽 から。
続く