前回の続き
北渓字義 二十章 中和 の続き
二十-2
『中庸章句』より
「中は天下の大本」
→渾然たるものが有り万物の道理が皆ここから出てくるので大本という。
「和は天下の達道」
→中にある大本が動き出し、あらゆる対応が道理に背くことなく、通用しないということがないので達道という。
二十-3
中には二つの中がある。
①未発の中→本性について。
②已発の中→事柄について。
已発の中
喜ぶべくして喜び、怒るべくして怒り、ちょうど程良く過不及でないのが中。
この中は「中庸」の和にあたる。
周敦頤の『通書』の「中なる者は、和なり」→已発の中を指している。
二十-4
『書経』や『論語』に出てくる「允(まこと)に厥の中を執れ」の中
→みな、已発の中。発動して影も形もある状態になってはじめて執ることができる。
二十-5
『礼記中庸篇』では喜怒哀楽の四つだけを挙げて和を説いているが、これは大綱を挙げているだけ。
実際には、内面から発動してきたものが理に悖ることがないのなら、それは全て和である。
二十-6
仏教の考え
喜怒哀楽などの諸々の情念を全て無くしてしまおうとする。
だが、無くす事はできない。
ただ正と不正があるだけ。
正しいもの→天理
正しくないもの→人欲
二十-7
中和の中
専ら未発に重点を置いている。
中庸の中
二つの意味を含む。
①心にある中
②事物にある中
朱子は中庸の二字を解釈する場合、必ずこの二つをあわせて
「不偏不倚、過不及なくして、平常の理」と説いた。
的確であり、完全である。
これで 二十章 中和 は終わり。
次は 二十一章 中庸 から。
続く