前回の続き
北渓字義 十八章 太極 の続き
十八-4
太極は天地万物の理を統合するもの。
天地万物から太極を話して別に論じてはいけない。
天地万物から離れて理の存在を説くと、二つに分裂してしまう。
十八-5
天地万物が生じる以前に太極という理が有る。
この理は宙ぶらりんに存在していない。
天地万物の理があると、天地万物の気がある。
天地万物の気があると、天地万物の理は天地万物の中に完全に備わる。
周敦頤の『太極図』「太極動きて陽を生じ、静かにして陰を生ず」
動くという理があるので動いて陽を生じることが出来る。
動いて陽が生じると、理はすぐに陽動の中に備わる。
静かになるという理があるので静かになって陰を生じることが出来る。
静かになって陰が生じると、理はすぐに陰静の中に備わる。
理があれば気があり、気があれば理は完全に気の中に備わる。
理と気が接続するところは縫い目の様な裂け目は全くない。
程子は『河南程氏経説』で「動静端なし、陰陽始めなし」と説いているがまさにその通りだ。
もし、前後を区別することができるなら、一方に偏り渾然たる至極ではなくなってしまう。
十八-6
老子は『老子道徳経』で「道は天地の先に在り(第25章より)」と説いている。
道にこのような意味が無いと言う訳では無いが、老子は、天地人物から完全に離れて、別個の宙ぶらりんの道理を説いて、これ以後のものは皆粗雑であると説いてしまった。
十八-7
統合していう→渾然たる一理だけであり、一太極だけである。
区別していう→天地万物はそれぞれ理を備えており、それぞれに太極があり、全て渾然としており欠けたところが無い。こう考えると多くの道理が成立する。
万物について統合して論じる
万物の統一体は渾然としており、一箇の太極以外何物でもない。
人が理を受け取り自分の心に備え持つと、心が太極となる。
万事について統合していう→一理に他ならない。渾然たる一太極。
水銀に例えてみる
大きな水銀の塊はまん丸いが、散らばって数多くの小さな塊になってもまん丸い。小さな塊を集めて再び大きな塊にしてもまん丸い。
太極
天地万物の外にいながら、一方では天地万物の中にはたらいている。
永遠の過去に存在しながら、一方では永遠の未来に一貫して存在している。
太極の理のはたらきがあまねく行き渡るとどこもかしこも円満になり、どこにも欠陥が無い。
一か所でも欠陥があれば、偏ってしまい太極とはいえない。
太極の本体は本来は円満なもの。
十八-8
太極が極至である理由
至中、至明、至精、至粋、至神、至妙と、至れり尽くせりでこれ以上何も付け加えるyことが出来ないから。
なので強いて極と名付けた。
十八-9
周敦頤以前にも唐代の柳宗元や北宋の邵雍らが無極の説を唱えていた。
柳宗元や邵雍は気の視点から説いていた。
周敦頤は理の視点から説いていた。
これで 第十八章 「太極」 は終わり。
次は 第十九章 「皇極」 から。
続く