前回の続き
北渓字義 十八章 太極(全9節) から
十八-1
太極
渾然たる至極の理であって、気や形で言えるようなものでは無い。
古の経書で太極を説いているのは『易』だけ。
『周易』 繋辞上伝「易に太極あり」
易は陰陽の変化。
陰陽が変化する所以としての理が太極。
『周易』 繋辞上伝「三極の道」
三極→天地人の至極の理のこと。
三極と名付けているのは天・地・人の中にそれぞれ一太極が備わっているということと、太極の霊妙なはたらきが天・地・人の中に一貫してはたらいていることを示す為。
他の諸子百家たちは皆、太極を具象化されたものと間違って説いた。
道は太極であり、道は理が通行するから道といい、太極は至極の極であるから太極ということを理解していない。
理が至極のものであるからこそ古今の人物が通行する。
古今の人物が通行するからこそ理は至極なもの。
二つの理があるわけではない。
十八-2
従来は太極の字義は不明であったが、周敦頤が『太極図』を作ってから、やっとはっきりした。
「無極にして太極」
無極→窮極がないこと。理には形状が無いということ。無味無臭と同じ。
太極→極至の甚だしいこと。理には形状が無いが 万物が天地によって育てられることは全て理を根底中枢としているということ。渾然としていて極至が甚だしいので太極と名付けた。
朱子の『太極図説解』
「上天の載(『中庸章句』から)」
→理からいったこと。
「声もなく臭いもなし(『中庸章句』から)」
→無極の二字の解釈。
「万化の枢紐、品彙の根柢」
→太極の二文字の解釈。さらに「太極の外、また無極有るにあらざるなり」と明確に結んでいる。
十八-3
太極は理からいう。
理をなぜ極というのか。
極は至(このうえなし)ということ。
極は真ん中にあるから枢紐(中心点)という意味を持ってくる。
皇極、北極→みな真ん中にあるという意味がある。
だが、極を安易に中(ちゅう)と解釈してはいけない。
極
常に物の真ん中にあり、四方のものはここまでやって来ると、みな極まって、もうそれ以上はどこにも行けない。
北極は四方の星座が皆動いても、北極だけは動かない。
太極
理についてのこと。
天が永久に運行し続ける。
地が永久に存在し続ける。
人や物が永久に生まれ続けることを止めない。
それぞれが勝手にやっているのではなく、全てこの理が真ん中にあって主宰しているので自然にそうなっていくという、渾然たる極至の状態にあるので太極と名付けた。
天地万物の理が全て集まり太極までやってくる
→皆、極点まで達して、それ以上は全く行くところがないので分散して天や地、人や物になると、みなそれぞれつり合いがとれて少しも欠けたところが無い。だから太極という。
続く