前回の続き
北渓字義 十五章 道 第4節から
十五-4
事物の上について見るなら、それぞれに当然の理がある。
以下の2文は『礼記』より
「足の容は重し」→足は物。重々しくするのは足を動かすときの当然の理。
「手の容は恭し」→手は物。恭しくするのは手を動かすときの当然の理。
『論語』の「視るには明を思い、聴くには聡を思う」
→明と聡が視たり聴いたりするときの当然の理。
『礼記』の「坐することは尸の如くし、立つことは斎するが如くす」
→「尸の如くし、斎するが如くす」が、坐ったり立ったりするときの当然の理。
物事に程度の違いがあったとしても、いずれにも過不及の無い程良い道理で、古の人も今の人も通行して棄てられないものがある。
儒学が変な方向に行ってしまった後、老荘思想や仏教などの様々な学説が登場した。
後世の儒者は道について語ると、すぐに老荘思想との関わりを持った。
前漢の楊雄は、非常に苦心して、自己の学説を打ち立てたが、道理に関する学説は、全て黄老思想であった。
続く