前回の続き
北渓字義 十五章 道 第2節から
十五-2
老荘思想が説く道
人や物とは関係なく、道を天地や有形のものを超越した存在として説く。
荘子の「道は太極の先に在り」は、天地万物が生まれる前に空虚な道理があるという意味。
天地が生まれる前の空虚な道理を想像しても、自分とは何の関係のないこと。
仏教が道を語る時も、ほぼ同じ。
老荘思想→無と考えている。
仏教→空と考えている。
仏教
天地が生じる以前の姿を自分の本当の姿として天地や万物はみな幻の様な移ろいやすいものとし、悉く取り除き、天地が生まれる以前の状態のなった事こそ道を悟ったものとしている。
老荘思想も仏教も道は人間事象の理であるということをわかっていない。
『周易』繋辞伝に書かれた「形よりして上の者、これを道と謂い、形よりして下の者、これを器と謂う」について
「形よりして上の者」→隠れていて見ることのできないものを道と言っている。
「形よりして下の者」→あきらかであって見ることのできるものを器と言っている。
実際の道と器は離れていない。道は器の理以外の何物でもない。
人間の社会生活という姿形のある部分→全て器。
人間の社会生活に備わっている理→道。
十五-3
道は事物から離れていない。
もし道が事物から離れていたら道は存在しない。
『孟子』の「君臣、義有り」の場合
義→道
君臣→器
義という道理を理解したいのなら必ず君臣の上について理解しなければならない。
君臣から離れてそれ以外のところに義があるわけがない。
同じく『孟子』の「父子、親有り」も同じ。
親→道
父子→器
親という道理を理解したいのなら必ず父子の上について理解しなければならない。
父子から離れてそれ以外のところに親があるわけがない。
夫婦→夫婦に別があるところに道がある。
長幼→序があるところに道がある。
朋友→信があるところに道がある。
夫婦、長幼、朋友から離れて、それ以外のところに別、序、信があるわけがない。
儒学は、一つとして実で無いものは無い。
老荘思想→清虚を尊んじ、人間の社会生活を忌み嫌う。
仏教→清虚を尊んじ、人間の社会生活を廃棄する。
老荘思想も仏教も道理を、事物の最も高いところにある玄妙なものとし、人間の社会生活を下の方にある粗雑なものとしているので、全て捨て去ろうとしている。
続く