前回の続き
北渓字義 十三章 敬 の続き
十三-7
程子は人心について工夫するときに特に敬に注意した。
道理
動静を貫き、表裏に徹し、終始を一にして限界が無いもの。
何も用事が無い時も、用事に応接する時も敬を用いる。
心が内にありじっとしている時も、動いて外に出る時も敬を用いる。
仕事を始める時も終える時も敬を用いる。
この心は途切れることが無いのだから、途切れると敬では無くなる。
十三-8
『大学章句』にある
「物に格りて知を致す」
「意を誠にし、心を正し、身を修める」
「家を斉え、国を治め、天下を平らかにする」
→いずれも敬が必要。
敬
一心の主宰者であり、万事の基本。
十三-9
『礼記』にある
「虚を執るにも盈てるを執るが如くし、虚に入るにも人有るが如くす」
この二句は敬の意味を極めて適切に言い表している。
中身が一杯つまっている容器を持つ場合、心が容器に集中していなかったら、一歩歩くとすぐに傾いてしまう。
一所懸命に持ち、心を容器に集中しているのならば、どこに行こうと傾いて中身がこぼれることは無い。
「虚に入るにも人有るが如し」とは人がいないところでも、大切な賓客に応対している時と同じように、心を常に厳粛にしていること。
→「主一無適」の意味。
十三-10
『河南程子遺書』にある「整斉厳粛」は敬の姿。
例えば座った時に体が傾いていたり、服装がだらし無いのは敬では無い。
十三-11
謝良佐の言う「常惺惺の法」は心の上に工夫をする場合、説き方が適切。
心は常にしっかりと目覚めていれば「常惺々」の言葉通り、生き生きとしているが、そうでないと心はすぐに死んでしまう。
『春秋左氏伝』で「敬は徳の聚なり」(僖公33年※紀元前627年)と書かれているがその通りである。
これは本当に敬を持つ態度の工夫をしないとわからないこと。
十三-12
朱子の書いた『敬斎箴』(『朱子文集』より)は、日常の敬を持つ態度の工夫を順序だてて述べている。
一節一節が極めて親切。
これを手元に置き常に読み、手本にして工夫すると、しばらくすると自然に進歩向上するはずだ。
これで 第十三章 敬 は終わり。
次は 第十四章 恭敬 から
続く