哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 38 十三 敬(7~12)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 十三章 敬 の続き

十三-7

程子は人心について工夫するときに特に敬に注意した。

道理

動静を貫き、表裏に徹し、終始を一にして限界が無いもの。

何も用事が無い時も、用事に応接する時も敬を用いる。

心が内にありじっとしている時も、動いて外に出る時も敬を用いる。

仕事を始める時も終える時も敬を用いる。

この心は途切れることが無いのだから、途切れると敬では無くなる。

十三-8

『大学章句』にある

「物に格りて知を致す」

「意を誠にし、心を正し、身を修める」

「家を斉え、国を治め、天下を平らかにする」

→いずれも敬が必要。

一心の主宰者であり、万事の基本。

十三-9

礼記』にある

「虚を執るにも盈てるを執るが如くし、虚に入るにも人有るが如くす」

この二句は敬の意味を極めて適切に言い表している。

中身が一杯つまっている容器を持つ場合、心が容器に集中していなかったら、一歩歩くとすぐに傾いてしまう。

一所懸命に持ち、心を容器に集中しているのならば、どこに行こうと傾いて中身がこぼれることは無い。

「虚に入るにも人有るが如し」とは人がいないところでも、大切な賓客に応対している時と同じように、心を常に厳粛にしていること。

→「主一無適」の意味。

十三-10

『河南程子遺書』にある「整斉厳粛」は敬の姿。

例えば座った時に体が傾いていたり、服装がだらし無いのは敬では無い。

十三-11

謝良佐の言う「常惺惺の法」は心の上に工夫をする場合、説き方が適切。

心は常にしっかりと目覚めていれば「常惺々」の言葉通り、生き生きとしているが、そうでないと心はすぐに死んでしまう。

『春秋左氏伝』で「敬は徳の聚なり」(僖公33年※紀元前627年)と書かれているがその通りである。

これは本当に敬を持つ態度の工夫をしないとわからないこと。

十三-12

朱子の書いた『敬斎箴』(『朱子文集』より)は、日常の敬を持つ態度の工夫を順序だてて述べている。

一節一節が極めて親切。

これを手元に置き常に読み、手本にして工夫すると、しばらくすると自然に進歩向上するはずだ。

 

これで 第十三章 敬 は終わり。

 

次は 第十四章 恭敬 から

 

 

続く