哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 35 十二 誠(1~4)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 十二章 誠(全9節)

十二-1

忠信ととても似ているが区別する必要がある。

誠→自然の理の状態について言い現した言葉。

忠信→人が努力、工夫をする上について説いた言葉。

十二-2

後世になると間違った説明をする者が多い。

程頤になって「無妄これを誠と謂う」といい、文字の意味がはじめて明らかになった。

朱熹になってこれに二字を増やし「真実無妄これを誠と謂う」と言い、道理がとても明らかになった。

後世に「至誠」という言葉を説明する場合、謙虚恭敬や謹厳実直などの意味にしかならない。

後世の人

「至誠」は真実の極致であり、少しも尽くさないということがなく、聖人だけがこれに当てはまり、安易に常人に当てはめることは出来ないことを理解していない。

十二-3

もともと天道について論じたもの。

『中庸章句』の「これ天の命、ああ穆として已まず」という言葉は誠のことを指す以外なにものでもない。

天道のはたらきは古から今に至るまで少しの嘘偽りも無い。

暑い夏が去れば寒い冬がやって来る。

太陽が沈むと、月が出てくる。

春に芽を出し、夏に成長し、秋に収穫し、冬に貯蔵する。

元から亨へ、亨から利へ、利から貞へと終始循環し、変わることがないのはみな真実の道理が主宰しているからだ。

天の運行→一昼夜に一周して、一度を過ぎる。

日月星辰の運行→その軌道から外れることは無い。

これはみな真実の道理であるのが理由。

十二-4

誠と人について

誠は、この実理のはたらきが人に付与され自然に現れてきたもの。工夫、努力をするとことまでは説いていない。

誠は人が生まれた時には備えているが、死ぬまでの間に無くなっているわけでは無い。

自分自身に日常的に現れているが、人がそれに気づかないだけ。

幼い子供でも親を愛し兄を敬うことを知っている。

→実理が現れたものであり、孟子の言う「良知良能」である。

子どもが井戸に落ちそうになると何も余計なことを考えずにすぐに助けようとする。

→天から与えられた実理のはたらきが自然と現れたもの。

物欲まみれの極悪人であっても、物欲が多少なりともおさまってくると、良心が自然にあらわれ、この良心は絶滅することは無い。

→天理のはたらきが自然と現れた真実。

人に現れたと言っても、やはり天の道なのだ。

人が工夫について論じるなら、誠実で人を欺かないという意味。

これは人の行う事として当然のことであり、これが人の道。

心が完全に誠実な状態に保たれている→誠である。

一つの発言が真実→誠である。

一つの行為が真実→誠である。

 

続く