哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 33 十 忠恕(7~9)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 十章 忠恕 7節から

十-7

忠→己にあるもの。

恕→人に及ぼすもの。

恕とだけ言った場合、忠がその中に含まれている。

「己を推すをこれ恕と謂う」、「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」という場合は「己」の一字に忠の意味が含まれている。

己に忠が無いのなら何によって推していけるのか。

忠がなくて恕だけなら、一時しのぎのものになり、中心から物に及ぼすものでは無い。

子思と曾子では指示しているものが異なっている。

『中庸』の「忠恕は道を違う(さ)ること遠からず」→学ぶ者の忠恕を説いたもの。

曾子が「夫子の道は忠恕のみ」と述べている→聖人の忠恕を説いたもの。

学ぶ者の忠恕→人道。

聖人の忠恕→天道。

十-8

孔子が子貢に教えた恕

「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」

これは『中庸』の「これを己に施して願わざれば、また人に施すことなかれ」と同じ意味。

後に子貢が「我、人のこれを我に加うることを欲せざるや、吾もまたこれを人に加うることなからんと欲す」というのも同じ意味だが、孔子は「賜や、爾の及ぶ所にあらざるなり」と答えている(『論語』より)。

程子は、さらに仁と恕を区別している。

理は一つだが、分は異なっているからだろう。

「加うることなし」→己を自然に物に及ぼすこと。

「施すことなかれ」→努力して己を推して物に及ぼすこと。

十-9

漢代以来、恕の意味が極めて曖昧になった。

「善く己を恕して主を量る」(『後漢書』より)という言葉が現れた。

南宋の范純仁ですら「己を恕する心を以って人を恕す」と言っている。

恕を自分の上につけることが出来ないのを知らない。

先の彼らは、恕とは人を許す意味に捉えている。

それが正しいのならば、自分に過ちがあるのに自分を許すのだから、人に過ちがあっても、過ちを大目に見るとういうことになる。

これでは互いに不肖の者となり、古の人の説く、己を推して心の如くするという意味ではなくなる。

范純仁の「人を責むるの心を以って己を責む」という説き方は良いのだが、「己を恕する心を以って人を恕す」という説き方は良くない。

その場合のいわゆる「恕」は、今の人たちがよく言う「且く恕す」、「軽々しく恕せず」と意味がよく似ている。

文字の意味が明らかでないと、とんでもない弊害が発生する。

 

「忠恕」はここまで。

 

次は第十一章「一貫」から。

 

続く。