哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 31 十 忠恕(2~5)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 十章 忠恕 2節から

十-2

忠と恕

全く同じものだが、二つの部分で分けると二つのものになる。

謝良佐は「忠恕はなお形影のごとし」とうまく説いている。

内面に保持しているものが忠。

忠が外にあらわれると恕になる。

事物に対応して恕でないのならば、内面に保持されているものは、真実ではない。

忠の心を外に表したのが恕の事。

恕の事を成し遂げるのは忠の心。

十-3

聖人の場合

ひたすら一つの渾然な真実のはたらきが、日常の雑多な事柄に一貫して注がれている。

→「推す」という言葉を用いることが全くできない。

曾子は『論語で』「夫子の道は忠恕のみ」と言ったのは学ぶ者の工夫である「忠恕」の二字を借り、同じく『論語』の「一以って貫く」という聖人の言葉の主旨をわかり易いように説いた。

木の根にある生気が忠。

この生気のはたらきは一貫して多くの枝や花に注がれる。このはたらきが恕。

これを信と並べて論じてみる。

それぞれの場所が決まると枝は枝となり、蕾は蕾となるのが信。

十-4

忠恕は元々は学ぶ者の工夫に関する事柄。

だが、程頤は「『これ天の命、ああ穆として已まず』は忠なり。『乾道変化して、各々性命を正す』は恕なり」と述べている。

天には己を尽くしたり推したりすることができない。これは天地についてその理が全て同じであると説いたことである。

「これ天の命」

元から亨へ、亨から利へ、利から貞へ、貞から再び元へと永遠に循環を繰り返し、止まることが無いのは嘘偽りの無い道理である。

万物がそれぞれこの道理を備えて生じると、大きいものはおおきく、小さいものは小さく、高いものは高く、低いものは低くなるように、それぞれ天が与えた性命を正しく受け取っている。これが天の忠恕。

聖人の忠恕

心の中に備わっている嘘偽りの無い大本のはたらきが広々と行き渡り、万物は広々と応じて、事や物がみなその当然に留まるべきところに留まる。

聖人の忠→誠であり、尽くす必要が無い・。

聖人の恕→仁であり、推す必要が無い。

程顥は「己を以て物に及ぼすは仁なり。己を推して物に及ぼすは恕なり」と説かれている。

「己を以ってす」→自然である。

「己を推す」→工夫である。

十-5

天地の忠恕

『中庸章句』の「至誠息むことなくして、万物がそれぞれその所を得る」

聖人の忠恕

論語』の「吾が道一を以ってこれを貫く」

学ぶ者の忠恕

論語』の「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」

みな理は一つであるが、分は異なっている。

 

 

続く