前回の続き
北渓字義 十章 忠恕(全9節)
十-1
忠信→忠と信を並べて論じる。
忠恕→忠と恕を並べて論じる。
程頤は「己を尽くすをこれ忠と謂い、己を推すことをこれ恕と謂う」と説いている。
忠→心について説く。己のことを尽くして嘘が無い。
恕→人を、もてなしたり、人と交際する場合について説く。ひたすら己の心が真実であるものを人や物に推し及ぼす。
文字の意味
中心が忠。己の内なる心を尽くして嘘が無い。だから忠という。
如心が恕。己の心を推して人に及ぼし己の心を推して人に及ぼし、己の心が、そうして欲しいと思っているのと同じように、人にもしてあげようとするのが恕。
孔子は『論語』で「己の欲せざる所は、人に施すなかれ」と言っている。これはそうして欲しくない面だけを言ってる。
本当は
己がして欲しくないこと→人にしてはいけない。
己がそうして欲しいこと→人にしてあげなければいけない。
己が親孝行したい→人も親孝行がしたい。
親孝行したいという己の心を人にも推し及ぼし、人にも親孝行したいという心になれるようにしてあげる。
己が立ちたい→人も立ちたい。
己が達したい→人も達したい。
己の心を人にも推し及ぼし、人にも立ちたい達したいという心になれるようにしてあげる。
これが「恕」である。
己の心の中にあるものののはたらきが、他のものに行き渡るのが恕である。
恕の道理は極めて大きい。
士人の場合→一族の内だけの範囲。
高い位についているほど、範囲が広くなる。
一番広大なのは天子。
一方で「不恕」もいる。
自分は富で親を養いたいと思う一方、天下の父母を飢えや寒さに苦しむようにして子が親孝行の実現をさせないようにする。
自分は富を享受したいと思う一方、天下の身寄りのない困窮者に生きることの楽しさを味わえることが出来ないように仕向ける。
このような行為は己の心を少しも推し及ぼさないこと。
これが不恕である。
続く