哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 24 九 忠信(1~2)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 九章 忠信(全9節)

九-1

忠信→人が努力をする場合に関してこの言葉が作られた。

性→仁・義・礼・智の四つがあるだけで、全ての善は皆ここから生じているので、先の四つは、実は全ての善を統括している。

忠信や孝弟などはみな万善の中に含まれている。

孝弟は仁のはたらきの中で最も切実なものであるが、親に仕え兄に従っていく場合に限り孝弟という。

忠信

五常が現れたものであるが、人と交際したり、話をしたりする場合に限って忠信と呼ぶ。

九-2

忠信の二字→昔から明確に理解している人がいなかった。

従来の学者たちの説の「忠」

全て主君にお仕えして主君を欺かない事と言ってるだけ。

欺かないのを忠と名付けるのはそれは間違い。

なぜなら忠は、主君に仕えなければ、不可能ということになる。

信を説く昔の学者

疑わないことを信と言ってるだけ。

疑わないことを信だと解釈するのは間違い。

疑わないとは、一体なにを疑わないのであろうか?

従来の説明では文字の意味を解釈しただけ。

程顥になって「己を尽くすをこれ忠と謂い、実を以ってするをこれ信と謂う」と説き方がはじめて明確になった。

「己を尽くす」→自分の心の中にあるものを尽くすこと。少しでも尽くさないことがあれば、それは忠とはいえない。

「実を以ってする」→言説の上についていうもの。話をする時、ひたすら事実に基づいて話をし、無いならば無いと言い、有るならば有ると言う。無いものを有ると言い、有るものを無いと言うならば、事実に基づいてないので信とは言えない。

忠と信

はっきりと異なった二つのものでは無い。

内面から現れ、一つでも尽くさないことが忠。

外面に現れた時、皆事実に基づいているのが信。

程顥の説明は「己より発して自らを尽くすことを忠と為し、物に循って違うことなきを信と謂う」と明快である。

己の心中から発して、一つでも尽くさないことが無い→忠

事実に従い発言して、是ならば是と言って是である事実に違反せず、非ならば非と言って非である事実に違反していない→信。

 

続く