哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 23 八 仁義礼智信(26~27)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 八章 仁義礼智信 第26節から

八-26

程子は「心は例えば穀種の如し、生の性、すなわち是れ仁なり」と論述している。

これは説き方が極めて親切。

これを基準として考え、同じく程子の「仁は性なり、愛は情なり」、「仁は覚と訓ずべからず」と、「公にして人を以ってこれを体す、故に人と為す」(いずれも『河南程氏遺書』より)などの数語を併せ参照して体験して会得していけば、主意を取り違えることなく、仁を本当に自分のものにすることが出来る。

八-27

理で言う場合がある。

心で言う場合がある。

事で言う場合がある。

理で言う→心の全体が天理という公共のものである。

朱子の「心の徳、愛の理」は理で言った場合のこと。

「心の徳」はその体であり、「愛の理」はその用である。

程子の「仁は天下の公、善の本なり」も理で言った場合のこと。

心が純粋に天理という公共のものであり人欲の私が少しも邪魔をしていないこと。

孔子顔回を「回や、其の心三月仁に違わず」と褒めたことを程子が「只だ是れ繊毫の私意なきなり。少しく私意あれば、すなわち是れ仁ならず」と述べていたり、孔子が「雍や其の仁を知らず」と述べているのは、みな心で言った場合。

事で言うと、その人の行為が理に適っていて私心がないことをいう。

孔子が「(伯夷・叔斉)仁を求めて仁を得たり」、「殷に三仁有り」といい、そして令尹の子文の忠、陳文子の清について「未だ知らず。いずくんぞ仁なるを得ん」と述べているのがこれに該当する。

人欲を捨て去り、天理に復帰し、本心の徳を全うすることである。

孔子が当時、仁に関する弟子たちの質問に答えた言葉は、それぞれの弟子達の素質や欠点の違いに応じて様々であったが、その考えは、皆同じであった。

 

八章の仁義礼智信はこれで終わり。

 

次は九章の忠信から。

 

続く