前回の続き
北渓字義 八章 仁義礼智信 第13節から
八-13
仁→心の全徳。四つのものを兼ね統率している。
義・礼・智・信→仁が無いと存在しない。
仁は心の中に備わっている生の理。常にそのはたらきが広がり物を生み続けても止まず、間断することもない。
この生の理がないと、心はすぐに死んでしまう。
人をもてなしたりする恭敬の心は何処からも現れようが無く、礼も存在しないことになる。
事の処置の際の裁制決断も出来なくなり、魏も存在しないことになる。
是非に関しても知覚することが出来なくなり、智も存在しないことになる。
仁・礼・義・智が無くて、実理があるわけがない。
八-14
人の本性が備えている仁・礼・義・智=天地の元・亨・利・貞の理。
仁→天では元。季節では春。
この季節は物を生じる始め。万物は春になり芽を出し姿形を見せてくる。
仁が生の徳により、衆善の長となっているのと同じ。
礼→天では亨。季節では夏。
この季節は万物が成長して美しいものがたくさん集まった状態になる。これは『礼記』では「経礼三百、曲礼三千」、『中庸章句』では「礼儀三百、威儀三千」と言われている。輝かしい文化が盛んな状態も、多くの美しいものが集まった状態と同じである。
義→天では利。季節では春。
この季節は万物は皆完成してそれぞれにふさわしい所を得てくる。これは義が万事を切り盛りしてそれぞれの事に宜しきを得るのと同じである。秋は厳しい秋気が草木を枯らす季節だが、義にも厳粛な趣がある。
智→天では貞。季節では冬。
この季節は万物がみな根源に還り、最初の状態に戻り、作物は刈り取られてしまっているおり、土地の状態が確定されてしまっている。これは智が万事の是非を全て確定しており、変更もできないのと同じである。これを貞固の道理という。
貞→元→亨→利→貞…とひたすらこのように循環し、途切れることが無い。
統括すると一つの元(仁)に帰着する。
元(仁)は生意。
亨(礼)は生意の通達。
利(義)は生意の完遂。
貞(智)は生意の収斂。
これが元(仁)が四つの徳を統率しているとされる理由である。
『周易』では「大いなるかな乾元、万物資りて始む。乃ち天を統ぶ」と書かれている。
「天を統ぶ」とは、最初から最後まであまねく行き渡っているのは、全て一つの元であるということ。
仁が四つのものを統率しており、義・礼・智はみな仁であるというのと同じこと。
四端となって現れる時は、惻隠の一端が、辞遜・羞悪・是非の端を貫通していて、これらを統率している。
もし、この四端が知らず知らずのうちに発動してくる発端となる「真情懇切(真心から出る親切)」の時について見るなら、惻隠の情が貫通している。
程子は『易伝』で「四徳の元は、なお五常の仁のごとし。偏言すれば則ち一事。専言すれば則ち四者を包(か)ぬ」と言われているが、これは極めて親切な教示であり、万古不易の論と言ってよいものだ。
八-15
何故、義・礼・智は全て仁だと言えるのか。
仁とは、この心が全て天理のはたらきであるということ。
礼儀三百、威儀三千→全てこの天理のはたらき。
義が様々な事柄を裁制決断をして宜しきを得る→→全てこの天理のはたらき。
智が万事を分別し是非を確定してくる→全てこの天理のはたらき。
続く