前回の続き
北渓字義 八章 仁義礼智信 第10節から
八-10
孟子の四端の説→外面に現れたものを手掛かりとして内面にあるものを確かめた。
子どもが突然、井戸に落ちようとしているのを見ると、自然に惻隠の心が生じる。
→内面に仁があることがわかる。
食べ物を、さあ食えと傲慢な態度で与えても、自然に羞悪の心が生じて、食べようとしない。
→内面に義があることがわかる。
賓客に応接すると、自然に恭敬の心が生じる。
→内面に礼があることがわかる。
何事か起こった場合、是は是となり、非は非となる。
→内面に智があることがわかる。
内面に上記の四つの本体が有るので、四つの端緒が自然に外に出る。
孟子の「乃ち其の情の若きは、即ち以って善を為すべし。乃ち謂善なり」である。
これにより、本性は決して曖昧としたものではなく、現れてくると四端になることをはっきりと示した。
ただ未発の時には見ることはできない。
四端になって、はっきりと現れるところについて人を啓発し、人の本性が元々は善であることを証明した。
程子が「万世に功あるものは、性善の一言なり」と孟子を誉めてこう言った理由がこれである。
八-11
信
性において、仁・義・礼・智の四つが全て真実の道理で現れてくることで現れてくると忠信(真心を尽くし、偽りの無い)の「信」となる。
内面に信があるから、現れてくると忠信の信となる。
忠信の信と、五常(仁義礼智信)の信は同じものだが二つに分けると
忠信の信→五常の信の端緒。
五常の信→外面の事物に応接するはたらきが発生するはたらきが発生する根源について説いている。
八-12
仁・義・礼・智の端緒
日常の生活の中に常に現れているが、人が理をはっきり理解していないので、ぼんやりとして気づかない。
ある事柄が目の前にやってくると是のものがあり、非のものがあるから、必ずそのことに気づかなければならないことが智。
是も非も分からないのは心が愚鈍で知覚が無いから。
是非がはっきりわかったならこのように為すべきであるという判断をしなければならない。
可否の判断をして、それに従うか従わないかを決めるのが義。
これが中途半端になって為すことができないのなら、心が愚鈍で義が無いから。
こうするしかないと断定したら、どうすると酷い行き過ぎになり、どうすると及ばなくなるかを考え、その行為が、ちょううど程良く、節文があり、行き過ぎも及ばずも無いのなら礼。
その行為に過不足が無く、少しの私意も混じっていないのならば、全てが天理のはたらきそのものになる。これが仁。
事が成し遂げられ、最初から最後まで、みな心の真実によってなされたのなら、それが信。
上記のことは下から上に向かって行った場合(智→義→礼→仁)
今度は上から下に向かって行った場合(仁→礼→義→智)
賓客に合う場合
賓客が見えたと聞くと失礼が無いようにお迎えしようという心が発動→仁
仁の発動後、今度は襟を正して賓客と会う→礼
挨拶の後、どのようなもてなし方が良いのかを考える必要がある。茶が良いのか酒が良いのか。料理は軽めのものにするか、重厚なものにするか。もてなし方の処置が宜しきを得る→義
軽めにするか重厚にするかなどして接待の仕方がはっきりと決まる→智
この動きが最初から最後までみな真実である→信
この道理は循環し、途切れることが無いので、この道理を熟知したら、はたらきの大小にかかわらず、みな宜しきを得て、横から説こうが、縦から説こうが、みな通じるのである。
続く