前回の続き
北渓字義 八章 仁義礼智信 第4節から
八-4
仁は極めて広大で精緻。
だが、そのはたらきを物を愛することに限定し、現れた端緒を惻隠だけに限定するのはなぜか?
仁は心が備えている理の全体であり、常に物を生み続けて止まない。
端緒が心の中から兆しとなりあらわれる→自然に惻隠の心となる→惻隠の心を推し広め物の上にまで及ぼす→愛となる。
仁こそが愛の根本。惻隠の心は根本から生えた芽。愛は芽が成長して完成したもの。
仁は愛の理。
愛は仁の用。
この両者は緊密に関連し合っている。
八-5
義
心について論じると、心が裁制し決断する場合。
宜
裁制し決断した後のこと。裁制し決断することが理に適ってはじめて宜しきを得る。
事柄が目の前にやってくると、必ず可否を分別しなければいけない。
もし、可否の分別が全くできないのならば、心が愚鈍で義が失われてしまっている状態である。
心の中でぐずぐずして決断を下すことができないならば義とは言えない。
続く
おまけ
今読んでいる本
北渓字義を読むときにとても役立っています。