前回の続き
北渓字義 五章 才(全1節)と六章 志(全7節)
五-1
才とは才質・才能のこと。
才質→才量他ということと同じ。体質からいうもの。
才能→仕事をする能力のこと。
同じ仕事でも良くできる人もいれば、全くできない人もいる。
→人によって才が同じで無いから。
『孟子』に出てくる「才の罪に非ず」や、「天の才を降ろすこと、爾(しか)く殊なるに非ず」という言葉は、孟子が才を性善という大本から現れたものとして、みな善いもの、全く同じものだとみなしているからである。
もし、完璧な説き方をしようとするなら、程伊川の
「気清めば則ち才清み、気濁れば則ち才悪し」と論じて完璧な説き方になる。
六-1
志→心が何かに向かって之(ゆ)くこと
「之く」とは、向かうという意味。心の正面が完全である方向に向かっていること。
例えば
「道に志す」→心が完全に道の方に向かっている。
「学に志す」→心が完全に学問の方に向かっている。
※二つとも『論語』が出典先。
真っ直ぐに求めていき必ず手に入れようとするのが志。
もし、途中で止めたりしようとか後戻りしようという心が生じたならば、志とは言えない。
六-2
志→趨向(すうこう)期必の意味がある。
心がある目標に向かって行き、ぜひこうなりたいと望んだならば、必ずこれを実現しようとするのが志である。
人がもし、志を立てずにただ平々凡々と世の中に合わせてだらだら生きているだけなら、何事も成し遂げることは出来ない。
人は必ず志を立てて、聖人や賢者を自己の目標とし、俗世間から抜きんでるようにしなければならない。
これを目指していけば、何の見識も持ち合わせない、つまらぬ人間にならなくてすむ。
自暴自棄の状態に満足している人間では、志を立てることはできない。
六-3
志を立てる場合は、必ず公明正大でなくてはいけない。
立派な素質に恵まれ、善い人柄で、道に非常に近い存在であるのに、卑俗な生き方に満足し、道に志すことをしない人が多い→彼らが志を立てることができないから。
前漢の文帝は、寛仁且つ恭倹な性格で帝王に相応しい素質を持っていたが、「これを卑しくして、甚だしく高論することなかれ。今をして行う可からしめよ」と『史記』や『前漢書』で述べられていることからわかるように、志を立てることが出来なかった。
同じく前漢の武帝は、尭舜の時代を褒めたたえた。その志向は公正明大であった一方、名声を好んだのは不純であり、取るに足らない存在となってしまう。
続く