哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 13 四 情(1~5)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 四章 心(全5節)

四-1

情と性は対になっている。

情は性が動いたもの。

心の中にあり、まだ発動していないものが性。

事物が触れ、発動してくるのが情。

情は性の中から発動してくるので性以外の何かがあるわけではない。

情の大目

喜・怒・哀・懼(く ※恐れ)・愛・悪・欲の七つ。

「中庸」

喜・怒・哀・楽の四つだけを挙げている。

孟子

惻隠(そくいん ※憐れむ)・羞悪(しゅうお ※不善を恥じ、憎む)・辞譲(じじょう ※へりくだる)・是非(ぜひ ※道理の有無)の四端を挙げている。

七つの体目も中庸も孟子も挙げているものは、みな情のことである。

性の中に仁がある→動き出すと惻隠になる。

性の中に義がある→動き出すと羞悪になる。

性の中に礼と智がある→動き出すと辞譲と是非になる。

四端の「端」は端緒のこと。

中に何かがあると、端緒がすぐ外に向かって現れる。

もし性の中に仁・義・礼・智が無かったら…

性が発動した場合、どうやって四端を発動できるのか?

心→性を中に貯えており、外に現れてきたのが情。

孟子

惻隠・羞悪は情からいい、辞譲・是非は性からいう。

心が性と情を統括して主宰している。

「大学」の中に出てくる

「憂患・好楽」、「親愛・畏敬」もみな情である。

四-2

情は心の作用。

人が無くすものが出来ないもの。

善くないものではない。

情となる原因には当然の則がある。

喜ぶべき時に喜び、怒るべき時に怒り、哀しむべき時に哀しみ、楽しむべき時に楽しみ、惻隠すべき時に惻隠し、羞悪すべき時に羞悪し、辞譲すべき時に辞譲し、是非すべき時に是非し、当然の則に合致しているならば、『中庸章句』の「発して節に中(あた)る」ということになり、心の中に備わっている本性のはたらきが現れ、この現れたものが『中庸章句』でいう「達道」である。

もし、当然そうであるべきでないのにそうであるならば…

その則に違い、その節を失い、私意人欲の行ないに過ぎなくなる。

そして不善に流れ、善くないものになる。

情そのものがもともと善くないものでは無いのである。

四-3

情が節に中っている場合→本性から発動してきたもの。つまり善であり、少しも不善は無い。

情が節に中っていない場合→本性からの発動ではなく、物欲に感じて動いたものなので、不善が生じてくる。

孟子が情を全く善いものとみなしたのは、本性に基いて発動した情だけを指していったから。

禅宗は、情を指してすべて悪いものとみなしたので、情をなくし、本性に帰ろうとする。

だが、情を無くす事はできない。

情を無くしてしまったら、本性は、はたらきの無い死んだ本性となり、人には何の役にも立たないものになってしまう。

四-4

孟子の四端→もっぱら善い場合について述べたもの。

喜・怒・哀・楽や七つの大目→善と悪とを一緒にして説いたもの。

四-5

礼記』の楽記篇

「人生まれて静かなるは天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり」

この「性の欲」が情のことを意味している。

 

四 情 は終わり。

次回は 五 才 から。

 

続く