前回の続き
北渓字義 三章 心 の続き
三-7
心の分量は極めて大きく無限である。
孔子が幅広く学ぶことに飽きることが無かったのは、心の極大無限の分量を極めつくそうとしたからだった。
三-8
心は極めて霊妙なもの。
尭帝や舜帝の様な天子となり、天地と並び立ち、鬼神を招き寄せることができる。
遥か遠く離れていても、ほんの少し思っただけで、すぐその場所に行ける。
古の人の心情や世の中の移り変わりの秘密も、ほんの少し考えただけですぐにわかる。
どんなに堅い石や金属でも、貫通させることができる。
極めて細かく、極めて奥深いことであっても、知り尽くすことが出来る。
三-9
仏教における性は、儒教における心と全く同じ。
仏教では人心の虚霊知覚を性と呼んでいるだけだ。
三-10
程頤や張載も孟子以降、心について適切に説いているが、朱子の「性は心の理なり。情は心の用なり。心は情性の主なり」は説き方がさらにわかり易くなっている。
三-11
張載の考え
理と気が合わさると人や物が生じる。
人や物が理を受け取ると性が出来上がり、そこではじめて「性」という名が生まれる。
性は理から来るが、気を離れない。
知覚は気から来るが、理を離れない。
性と知覚が合わさると心が出来上がり、そこではじめて「心」という名が生まれる。
三-12
「河南程氏遺書」より
「上天の載は、声もなく臭いもなし。其の体は則ちこれを易と謂い、其の理は則ちこれを道と謂い、其の用は則ちこれを神と謂う」
これは天の心・性・情について述べたもの。
易→心
道→性
神→情
体は体用の体では無く、形状模様がこのようであるということ。
易は陰陽の変化のことであり、理と気を合わせて説いている。
※三 心 終わり。次は 四 情 から
続く