哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 11 三 心(3~6)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

北渓字義 三章 心 の続き

三-3

心→本体が有り、作用がある。

衆理を備えている→心の本体

万事に応じていく→心の作用

寂然として動かない→心の本体

感じて遂に通じる→心の作用

本体→性のこと。心が静かな場合なこと。

作用→情のこと。心が動いた場合のこと。

聖人は本来の善の心を失わないよう努力することを極めている。

心が静かでまだ発動していない時→塵一つ付いてない鏡のように常に安定している。

心が動いて物に応じていく時→美は美、醜は醜、高は高、低は低と、もの本来の姿に正しく従い処置して少しも過ちが無い。同時に心の本体も常に泰然自若としており、なにかに引っ張られてしまい、どこかへ行ってしまうようなことは無い。

三-4

性は理。完全な善であり悪では無い。

心は理と気を含んでいる。

理は善であるが、気は完全な善とは言えず、善で無い方向に向かって行き易い。

心は生き物であり、とにかく動きたがる。

心が動くのは気に乗じて動く。

心が活動する所→気を成分にしているので活動することが出来る。

心が霊妙であるのは理と気が一緒になっているから。

だが、この「霊妙」は心が非常に立派だという事ではなく、心のはたらきが推し量れないという意味だ。

心は出て行ったかと思うと、突然入ってくる。出入りに決まった時は無く、決まった居場所が無い。操り守るとわかるところに在るが、ほっといていると、すぐにいなくなってしまう。

心が出ると言っても、心が外に逃げ出すという事では無く、邪念のある外物を感じ、外物を追いかけて行った結果、心がわからなくなってしまったということだ。

心が入ると言っても、今までほっといたものを、外から引き入れるのではなく、少し心を引き締め戒めさえすれば、すぐにわかるところに在るということだ。

人は心を操り守ることを涵養する努力をすることで、はじめて身体の主宰者としての心の主体性が確立し、心が亡失する心配がなくなる。

学問を尊ぶ理由はここにある。

だから孟子は「学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ」と言ったのだ。

三-5

身体に備わっている心の部分(心臓)の大きさ自体は小さなものだが、全てのはたらきはみな、心から出ているのだから、間違いなく根源なのである。

だから子思は「未発の中」を天下のおおもととし、「已発の和」を天下の達道とした。

三-6

仁→心を生かしている道理

敬→心を生かす為の努力

 

続く