前回の続き
北渓字義 三章 心 から(全12節)
三-1
心は身体の主宰者。
人が身体を動かす。
腹が減って食べ物を思う。
のどが渇いて飲み物を思う。
夏の暑さや冬の寒さに適した服を思う。
こう思うのは心が主宰しているからだ。
心の病気の場合
→心が邪気につけこまれていて、内に主宰する者がいない。日常の動作がおかしくなり、理も義も全く分からなくなってしまっている。ただ、身体に生気が少しばかり通っていて絶えていないだけの状態。
人
→天地の理を受け取り本性としている。
→天地の気を受け取り身体としている。
理と気が合わさる→はじめて心が出来上がり、虚霊知覚が生まれる。心の虚霊知覚が身体を主宰している。
虚霊知覚
→天に基づき理に従って現れる場合がある。
→気に従い欲に任せて現れる場合がある。
それぞれ異なっている。
三-2
心は器の様なもの。この中に貯えられているのが性。
邵雍(しょうよう)は「心は性の郛郭(ふかく)」と言った。大まかな説き方だが、考え方としては適切だ。
郛郭(※当時の都市や城)は心。この郛郭の中の多くの人家が心の中に備わっている理に相当する。この心の中に備わっている理こそ性。つまり、性が心の本体となる。
理が心に備わると多くの妙用が生まれる。
知覚が理から現れる→仁義礼智の心であり、これは道心(道徳心)。
知覚が形気から出てくる→人心であり、理と食い違いを招きやすい。
人には一つの心が有るだけで、知覚となる原因が異なるのでこのような違いが出てくる。
腹が減って食べたくなる。のどが渇いて飲みたくなる。→人心
食べても良いものを食べ、飲んでも良いものを飲む→道心
道心では飢え死にしそうになっていても、相手から足蹴にされたり、傲慢な態度で「さあ食え」と出された食べ物は決して受け取らない。
この様な心は内に備わっている道理から現れてくる。
相手が傲慢な態度で食べ物を差し出しても受け取らずに去るべきだが、相手が非礼を詫びたなら受け取って食べても良い(「礼記」より)とは言うが、これは道理と対処の仕方が非常に微妙なものなので、はっきりと理解することが難しい。高い識見が有って、はじめて分別が出来る。
続く