哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 9 二 性(6~8)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

「北渓字義」 二 性 の続き

二-6

韓愈は「人の性と為す所以の者は五、曰く、仁・義・礼・智・信と」言った。これは性を正しく理解しているが、これは性三品説になってしまっているので間違いになってしまった。

気稟の不揃いは三品だけにとどまらず、その万倍にもなる。

二-7

仏教では作用を性であるとして考え、昆虫や動物にもみな仏性が有り、水を運んだり柴を運ぶのも妙用としている。

だが、これではただ、気を認めて、理の方は説いていない。

二-8

今の世はいい加減な人達が多く、性命の問題に対して現実離れした議論を従っている。

仏教の作用が性であるとの考えを借用して、これを聖人の言葉で飾りたてているが、お粗末だ。仏教の考え方からといっても、告子の「生をこれ性と謂う」の説に過ぎない。孟子によってとっくの昔に払拭されたのに、今となって再び優れた学説として持ち上げられている。

人が行動することを可能としているはたらきを性としているが、これでは道理に通じていない所があることに考えが及んでいない。

運動が、本然の法則に適っている場合には、性であるが、泥棒が盗みをはたらくのも、運動であるけれど、性にはならない筈だ。

精神魂魄のみを認めて、当然の理があることも知らず、ぼんやりとした影だけを見つめ的確な定見を持っていない。

これでは人を天理と人欲がごちゃ混ぜになっている区域に連れて行ってしまっているようなものだ。

 

性はこれで終わり。

次は 三 心 から。

 

続く