哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

※改題 北渓字義ノート 8 二 性(3~5)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

この記事は、「朱子学の基本用語―北渓字義訳解(研文選書) 」を基に朱子学について書いていきましたが、路線と題名を変えます。今までは本の内容をわかり易くという事で書いていきましたが、今後は自分が理解する為のノート取りに専念します。

「ああ、こいつはこういう感じでこの本における朱子学の言葉を捉えているんだな」程度です。用語の解説とかもあまりやらない。

二「性」(全8節)の続き。3節目から。

二-3

理→天が人に命じたものだから、元々善であって悪では無い。

孟子の「性は善なり」は、あくまでも根源について説いたもの。

人々に不揃いが生じるのは個々の気稟(生まれつきの気質)が違うからだろう。

これは陰陽五行の気。

陽→剛

陰→柔

火→操

水→潤

金→寒

木→温

土→重厚

このような性をそれぞれ持っている。

この7つが複雑に入り雑じり、様々な不揃いが生じる。

これが人の品性にも様々なものが有る理由だろう。

この気がきれいに揃っていく(真元の会)と聖人の持つ気の揃い方になる。

だが天地は不揃いの時が多く真元会合の時の方が少ない。

一年の中では、ちょうど程良い気候よりも、極寒、猛暑、曇天の時の方が多い。

人が生まれると多くの場合は不揃いの気に出会う。

非常に気性の烈しい人→陽の気に多く出会っている。

非常に軟弱な人→陰の気に多く出会っている。

短気・粗暴ですぐに腹を立てる人→陽の気の悪いものに出会っている。

狡猾で陰険な人→陰の気の悪いものに出会っている。

様々な性格の人がいるが、これは気稟、つまり生まれて出会った気の影響なのである。

周敦頤撰『通書』に「剛善・剛悪・柔善・柔悪」と書かれているように、陽の気にも善と悪、陰の気にも善と悪が有る。

陰陽の気が元々悪いのではなく、気が揃ったり揃わなくなったりしている内に気の純と不純、善と悪の違いが生じる。気の純、不純によって人に賢と愚の差が生じる。

だが、気は不揃いでも根本は同じなので愚か者でも生まれ変わり善をなすことができるが、この工夫や努力は難しく、愚か者なら100倍の努力が必要だ。

その為には性をはっきりと説かなくてはいけない。二程先生によってはじめて明確に説かれるようになった。

二程先生の「性は則ち理なり。理は則ち尭舜より塗人に至るまで一なり」は簡単明瞭で適切な説明。

孟子の性善の善は理である。

程先生は気質の方面も明らかにしたので善悪が生まれる理由がはっきりした。

二程先生の言葉を考えるに、大本である本性を論じるだけで気稟に論及しないと、論述に欠けたところが生じて不備となり、気稟を論じるだけで大本である本性に論及しないと、粗雑な説明に終わり、道理の方は全く不明となるだろう。

二-4

孟子性善説はどこから来るのか?

『易』の繋辞伝「一陰一陽をこれ道と謂う。これを継ぐものは善なり、これを成すものは性なり」

陰となったり陽となったりする所以の理が道。→太極の本体を統括して説いたもの。

「これを継ぐものは善なり」→造化(天地)のはたらきは、万物を生育付与するだけであり、ただ善であることを説いたもので、太極が動き陽になった場合。

善とは実理面から天道がちょうど行われている状態。

「これを成すものは性なり」→人や物が善の道理を受け取り、それぞれ性を完成させていることを説いたもので、太極が静かとなって陰となった場合。

「性」は「善」と相対している。これが孟子の言う「善」であり、理がすでに定まった場合のこと。

「継」と「成」→陰と陽の字が相対しており、気を指したもの。

「善」と「性」→道の字と相応じており、理を指したもの。

孔子の「善」→人や物が生まれる前の造化の根源について説いたもの。ここでの善は重い意味を持ち、実体そのものの説明。

孟子の性善の「善」→「これを成すものは性なり」について説明したもの。人が生まれて以後のこと。ここでの善はこの性が純粋至善だと説いた軽い意味のもの。

造化の根源のところに「これを継ぐものは善なり」があり、「これを成すものは性なり」の時になって善でありうる。

孟子の善は孔子の善に基づいているので、根本が二つあるわけがない。

二-5

気稟の説はどこから起こったのか?

論語』陽貨篇の「性相近きなり。習い相遠きなり」、「唯だ上智と下愚とは移らず」は明らかに気質の性を説いたもの。子思も『中庸』で気質の性を説いていたが、はっきりと指摘していなかった。

二程先生が始めてはっきり指摘し、詳細に説明した。二程先生の説に基づき張横渠はさらに定論を確立させた。

気質の性は気稟からいう。

天地の性は根源からいう。

実際は天地の性も気質から離れているわけでは無い。その気質の中から天地の性を区別し気質を混ぜずに言ったままである。

 

続く