前回の続き
久々の更新だね。
北渓字義の 二「性」について。全8節
二-1
性とは理のことです。何故性と言わずに理というのでしょうか?
私が思うに「理」とは、天地の中に備わっている人やものにある「理」全体のことを言うからです。
性は人に備わっている理なのです。
天から受け取った理を人が所有しているので性と言うのです。
「性」という字は「人」と「心」という字から成り立っています。人が生まれ、この理を心に持ち、性と名付けられるのです。
性の大目は以下の四つだけです。
①仁:天命の大元を受け取り、人に備わったもの。
②礼:天命を正しく受け取り、人に備わったもの。
③義:天命の良いところを受け取り、人に備わったもの。
④智:天命を誠実に受け取り、人に備わったもの。
「性」と「命」は二つのものでは有りません。天では命と言い、人では性と言うのです。
二-2
性と命は一つの理なのですが、分けて考えないとはっきりしません。また、分けるだけで合わせて考えないとバラバラになってしまい関係が無くなってしまいます。
理の中に乱雑で無いけじめがあることを理解しなくてはいけないのです。
何故、理を命や性といった別の言葉で表現するのでしょうか?
人が生まれ、形があってこそ、はじめて理を人に備えさせることができるのです。
気は理の外にあるのではありません。人は天地の気を受け取り、形が作られ、天地の理をを受け取り、性が出来上がります。
人と物は同じ天地の気を受け取り生まれるのですが、人と物では受け取った結果が違ってきます。
人は正しい気を受け取っているので、正しく形作られます。仁・礼・義・智を備えているのは人だけです。
物は偏った気を受け取っているので、その形に拘束されてしまいますので、理が閉ざされて通じ無くなります。
人や物の理は同じものですが、気が正しいものか偏ったものかによって、理も変わった結果として人や物に備わるのです。
続く