前回の続き
続けて行こう。
42頁~44頁
主観的ないし具体的な権利のための闘争
権利が侵害されたり奪われたりするときに開始。
権利のための闘争は法の全ての分野において繰り返される。
戦争、国家権力の恣意的行為、蜂起、革命、反乱などの国民による抵抗、リンチ、決闘、正当防衛という自衛、民事訴訟…全て権利のための闘争が示す様々な形態でしかない。
訴訟について
私法上の争いの目的とされる利益の価値は比較的少ない。
昔は当事者間同士で決着をつけていた。紛争=闘争(カンプ)の意義がわかりやすかった。
単に物の価値、金銭的損失の防衛目的だけでなく、人格、権利と名誉の主張の問題だった。
44頁~45頁
今で考えてみる。
権利を侵害された場合どうするか?
侵害者への抵抗、闘争を選ぶか?闘争回避の為に権利を棄てるか?
権利を犠牲にして平和を選ぶか?平和を犠牲にして権利を選ぶか?
どちらを犠牲にした方が楽か?
金持ちは些細な訴訟額を犠牲にするだろうが、貧乏人は同じ額であっても高額に感じ訴訟をためらう。計算問題になっている。
45頁~46頁
実際にはそんな単純なものではない。
勝つためには膨大な費用がかかることがはっきりしていても訴訟をあきらめないものが多い。
46頁~47頁
行動原因は訴訟嗜好症、権利主張症と言われる。
国同士の紛争で考えてみる。
他国から1平方マイルの無価値な荒地を違法に取り上げられたとする。
取り戻すために戦争を始めるべきか?
訴訟嗜好症と言われる農民の訴訟と同じ見方で考える。
境界線から2~3フィート内側まで隣人に耕作されたり、隣人が拾った畑の石を自分の農地に投げ捨てられた場合、農民は訴訟を起こす。
紛争の話に戻す。
無価値な1平方マイルの荒地のために、膨大な国費を費やし、多くの自国民の生命を犠牲にして取り戻すほどの価値があるのか?無価値な土地の為に多大な犠牲を払うことは愚行だ。
47頁
農民と国とを同一の尺度で測れば先の様な判断となる。
だが、このような権利侵害を黙認する国民は自己に対する死刑判決に署名するようなものだ。隣国によって1平方マイルの領土を奪われても征伐をして隣国を懲らしめなければ他の領土も奪われていき、最後には領土を全て失い国家が失われる。黙認する国民にはその程度の価値しかない。
47頁~48頁
国が領土の為に1平方マイルの土地の為に価値を問わなければいけないのなら、同じことをわずかな土地の為に争え立ち上がれと農民に言えないのか?
実は、国が1平方マイルの領土のためではなく、自分の名誉と独立の為に戦うと同様、原告が起こす権利のための訴訟もわずかな価値しかないもののためでは無く、人格自体とその権利感覚を示すために遂行される。
この目的ならば訴訟による犠牲や面倒も問題ではないと権利者は考える。
被害者を訴訟に駆り立てるのは、冷静に熟考された金銭的利害ではなく、加えられた不法についての倫理的不快感からだ。
被害者にとって大切なのは係争物を取り返すことで無く、自分の正当な権利を主張することだ。自分にとって大切なのは自分の人格や名誉や権利感覚や矜持。
被害者にとって訴訟とは、単なる利害の問題から品格の問題に、人格を主張するか放棄するかという問題になる。
48頁~49頁
同じ状況でも正反対の立場をとる者もいる。苦労して権利を主張しなければならないのなら平和の方がましだという考え。権利の主張と放棄は権利者の選択に委ねられているのだから争っても争わなくてもよいのだいう考え。よく聞かれるがイェーリングによればそれは大間違い。さっきのような間違った意見が支配的になれば権利そのものが否定されていくだろう。
権利の存続のためには勇敢な抵抗が必要である。先の様な間違った意見は不法から逃げ出す臆病な態度を奨励するものだ。
イェーリングの説
人格のそのものへの無礼な不法、権利を無視し、人格を侮蔑するような権利侵害に対して抵抗することは義務である。権利者の自分自身に対する義務である。
それは、自己を倫理的存在として保存せよという命令に他ならない。それは、また、国家共同体に対する義務である。法が実現されれる為に必要なものだから。
49頁最後
権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。
続く