哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

メモ書き「権利のための闘争」1

貞観政要 全訳注」に取り組み辛い状態になっているので、最近急に読みたくなったこの本のメモ書きをします。


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ドイツの法学者、ルードルフ・フォン・イェーリング(1818年~1892年)が1872年にウィーンの法律家協会で行った講演が本になったもの。

自分の読書用のメモ書きです。

この記事を読んでもさっぱりわからんかもしれません。

この本は私にとってお勧めの一冊です。実際に読まれた方なら「ああ、こういう風に捉えたのね」となるかもしれません。

序文及び第11版序文は省略します。

見出しに書かれている頁は岩波文庫版の頁です。

 

29頁~30頁

権利=法(リヒト)→目的は平和。そのための手段は闘争。

権利=法の生命は闘争。諸国民、国家権力、諸身分、諸個人の闘争である。

世界中の全ての権利=法→闘い取られたもの。

あらゆる権利=法→一国民のものも一個人のものもいつでも貫く用意があることが前提。

権利=法→生き生きした力。

正義の女神は片手に権利=法を量る秤を持ち、片手に権利=法を貫くための剣を持っている。

秤を伴わない剣→裸の実力、剣を伴わない秤→法の無力を意味する。

剣と秤のバランスが取れている時のみ完全な権利=法状態が実現される。

30頁~31頁

権利=法→不断の行動。国家だけでなく国民全体の行動でもある。自己の権利を貫かなければならなくなった個人は誰でもこの行動に加わり、権利=法の理念の実現の為に寄与する。

権利=法は全ての者に等しく要請されない。大半の人は敷設された方の軌道上を平穏に進行している。そんな人たちに権利=法は闘争であると言っても分かってはもらえない。彼らにとっての権利=法は平和と秩序の状態。

この錯覚の原因→財産や権利に内在する二つの側面が恣意的に切り離されているから。

ある者は享受と平和の面だけを割り当てられる。ある者は労働と闘争の面だけを割り当てられるという事実が起因である。

権利=法→各個人ごとの受け止め方、各時代ごとの受け止め方に差異が見られる。個人も諸国民もどちらか一方だけの面を割り当てられて錯覚をしていた。長い平和な時代が一発の砲弾によって戦争の時代となる。戦争という厳しい労働の後に平和がやって来る。

財産や権利の場合、権利=法の場合も労働と享受は分配されている。享受し平和な生活を送る者の為に、別の者が働き、闘わなければならない。闘争を伴わない平和、労働を伴わない享受は人が楽園を追放されるまでは可能だった。その後の歴史では平和と享受は絶えざる刻苦の結果としてのみ可能。

 

続く