目眩帳

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

貞観政要かみ砕き 73「巻三 封建 第八」第二章 その1

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

久々に戻ってきた。

「巻三 封建 第八」の第二章から。

 

第二章 封建制の弊害

太宗は

(周は王の子弟を各地に封して800年余り続いた。秦は封建制をやめて郡県制にしたが二代で滅んでしまった。前漢呂后は権力欲しさに皇室の劉氏を排除しようとしたが、結局は皇室の力で国は安定した。親族や賢臣を封建することこそ子孫が長く久しくなるための道なのではないだろうか)

考えた。

太宗、役職を世襲制にしようとする

太宗は制度を定め、皇族では荊州都督(州の軍事長官)で荊王の李元景(りげんけい)、安州都督で呉王の李格(りかく)ら21人のポストを、また、功臣では司空(皇帝の顧問)で趙州刺史の長孫無忌、尚書左僕射で宋州刺史の房玄齢ら14人の刺史のポストを世襲制にしようとした。

李百薬(りひゃくやく)、世襲制に反対する。

礼部侍郎の李百薬が、これに反対し、以下の様に進言した。

李百薬「私は国を治め民を守ることこそが、王として常にある姿であり、君主を尊敬し、国が安定してほしいと願う事が多くの民の気持ちのであると聞いています。政治の決まり事をはっきりと定めて国を弘く長く続かせようとすることは、大昔からかわらず、数多くの考えや方法が有っても目指すものは皆同じです。ですが、長く続く国もあれば、すぐに滅びる国もありました。良く治まった国もあれば、乱れ続けた国もありました。古典を読みますと、そのことについて詳しく論じられています。周王朝は長続きしましたが、秦は長続きしなかった理由には秦が郡県制を採用した事にあります。周は夏王朝や殷王朝が長続きしたことを手本にして、昔の王達の様に諸侯への封建制を採用し、国の基盤をがっしりと固め盤石なものとし、例え王室がたるんで駄目になった時でも諸侯たちが協力して王室を支えました。このため、王室に逆らう者は現れず、周王室は尊ばれ続けられていたのです。秦王朝は古の王達の教えに背き、かつての王達の道を棄て、華山(秦の首都である咸陽から東に約150km程のところにある高く険しい山)の険しさを守りに利用し、諸侯を廃止して郡守(各郡の長官)を配置し、皇帝の子弟にはほんのわずかな土地や城をも与えませんでした。庶民たちが皇室と共に国が治まる様にと憂う気持ちなどを持つことは殆どありませんでした。ですので、一人の男が大声で叫んだだけで反乱が起き、皇帝の廟はたちまちに打ち崩されてしまったのです」

 

 

これでは李百薬は封建制に賛成してるのではないかと思われますが、この話はまだまだ続きます。

今回はここまで。

当時の役職についてはこちらを参考にしてください。

kamata-ei.hatenablog.com

 

続く