哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

陳淳で朱子学入門 6 北渓字義 一 命(9)

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

一 命の第9節から

 

一の9

Q「天命は同じであっても何故、人が受け取ると不揃いが生じるのでしょうか?」

A「天が雲を作り雨を降らしたとします。降る雨には変わりは有りませんが、黄河揚子江といった大河に降っても流れはそのままで水かさは増えたりしません。渓流に降ると急な川の流れとなります。田んぼの中にある溝に降るとすぐに一杯になったかと思うとすぐに干からびてしまいます。沼や穴ぼこや盆や瓶や盃や貝殻などに降ると、大きな量の水を貯えたり、一滴の水が入っているだけになったり、澄んだ旨い水となったり、濁った水となったり、臭い水となったりします。このように降る雨は同じであっても雨水を受け止めた物の違いによって様々な違いが生じます。土地を耕して野菜の種を蒔いたとします。種を蒔く行為に変わりは有りませんが、畑全体に綺麗に並んで青々と生えるものもあります。あぜ道にそばに投げ捨てられ、踏まれて生えないものもあります。蒔いて生える前に小鳥に食べられてしまうものもあります。生えたばかりのところを鶏やガチョウに食べられてしまうものもあります。少しばかり成長したところで刈り取られるものもあります。成長した後で根こそぎ引き抜かれるものもあります。長い間、畑に在って、葉をむしり取られるものもあります。毎日、吸い物として庶民に食べられる物もあります。漬物になって神様へのお供え物になるものもあります。あえものになって高級な鉢に盛られて、大事なお客様へのもてなしになるものもあります。素焼きの鍋で煮られて物乞いに食べられるものもあります。柔らかな若葉の内に摘み取られるものもあります。青々と茂ってから刈り取られるものもあります。実って種が出来てから、すりつぶされて、あえものの汁に使われるものもあります。種として貯蔵され翌年にまた芽を出して成長を続けるものもあります。このような畑の作物の様々な不揃いは、種を蒔く人が手心を加えて出来るものではありません。ですので、天命が同じであっても、人が受け取ると様々な不揃いが生じるのは、これもまた自然の理なのでありまして、疑う余地など無いのです」

 

これで「命」については終わり。

 

次は「貞観政要 全訳注」の巻三 封建 第八の最後の章に取り掛かります。この章が終わると巻三が終わります。ラストの章はかなり長いです。

 

巻三が終わりましたら北渓字義の第二章「性」に移ります。

 

続く