哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

Laozi said so. 25:おまけ2

おまけの続き

kamata-ei.hatenablog.com

儒家道家についての考察。

有名タレントの解説動画の影響で対立するライバル同士というイメージを持ってる人も多いと思うけど、そこまで対立しているようにも思えないんだよね。

  

今回の要約で個人的に注意したこと

解釈などでは儒教批判の面が多いと良く書かれているけど果たしてそうだろうかという印象も持った。自分が儒教の勉強中なので、あまり儒教のことはボロクソ書きたくないってのも有りますが、論語老子道徳経で言ってる内容はほとんど同じだろこれという箇所もいくつかあるので、そのあたりを考えながら要約をやったんだ。

入門書レベルの解説と考察

前回紹介した「入門 老荘思想」で論語老子それぞれに書かれている内容で、よく似ているところがあるのが書かれている。

www.chikumashobo.co.jp

今回、老子は要約にも使った明治書院新書漢文大系から

www.meijishoin.co.jp

論語岩波文庫版から引用します。

www.iwanami.co.jp

老子論語で似ている点

「入門 老荘思想」で取り上げられている点は理想の君主像について。

老子では

第17章「太上は下之有るを知るのみ。(中略)信足らざれば、不信有り。猶として其れ言を貴べ。巧成り事遂げて、百姓皆我自ら然りと謂えり。」

論語では

巻第一 為政第二 1章「子の曰わく、政を為すに徳を以ってすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし。」

巻第八 衛霊公第十五 5章「子の曰わく、無為にして治まる者は其れ舜なるか。夫れ何をか為さんや。己を恭々しくして正しく南面するのみ。」

老子論語も共通しているのは理想の君主は何もしないで仁徳だけで治めている。孔子は具体的に舜帝の名前を出しているんだ。

北辰というのは北極星のこと。君主に徳が有れば臣下や民たちが北極星の周りを回る星たちのようについてきて良い方向に動くということ。

中国では帝は北にいるから玉座は南向き。舜帝は備えた仁徳だけで、ただ座ってるだけで優れた臣下が集まって国をよく治めるということ。

これによく似た話は貞観政要にも登場している。

bookclub.kodansha.co.jp

 以前にもこのブログでも書いたけど、尭帝が民たちの暮らしがどうなってるかとお忍びで町に行ったら町は栄えて平和だった。そんな中、ある老人が「俺たちが井戸を掘って水を飲み、田畑を耕し作物を作って腹を満たしている。みんな俺たち庶民が頑張った結果だ。尭帝が何をしてくれたんだい?」と上機嫌で歌っていたのを聴いて尭帝は「世の中は平和に治められている。良かった」と思うっていう話が有るんだ。

これは「太上は下之有るを知るのみ。」の具体例とも言えるね。

老子は本当に仁を否定しているのか?

 老子18章で「大道廃れて仁義あり」で儒教の仁と義を批判しているとよく言われているが果たして批判だけだろうか?老子にしてみれば道を体得しての徳が最上だけど、今は誰もわかってない。代わりに人を正すための仁や義が出てきたのも仕方がないのかもしれないというボヤキにも聞こえてくる。

老子による儒教の仁、義、礼への評価は道の徳と一緒に老子38章に書かれている。だいたいこんな感じ

上等の徳→徳を意識しない。自発的には行わず、大業を成し遂げても功績を意識していない。

下等の徳→徳に執着している。自発的に行い、成し遂げたことは自分の功績だと思う。

上等の仁→仁を意識している。自発的に行うが、大業を成し遂げても功績を意識していない。

上等の義→義を意識している。自発的に行い、成し遂げたことは自分の功績だと思う。

上等の礼→礼を意識している。自発的に行い、従わない者を無理矢理従わせようとする。

上徳と上仁は無意識か自発的かの差だけなんだよね。老子の考えは無為自然が最上だから、自発的に行う儒教の仁を1ランク下に見ている。礼に関しては当時は形骸化が進んでいたとも考えられる。仁を実現するための礼が形骸化しているのならそりゃ厳しい批判もするでしょ。中身のあるしっかりした仁は執着しているだけの徳よりも優れているってことだから仁に対しては一定の評価をしてるんじゃないだろうか。

論語でも中身が伴ってなくてどうするんだという記述がある。

巻第二 八佾 第26章「子の曰わく、上にいて寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾れ何を以てかこれを観んや。」

中身の無い見かけだけのものに何の価値があるんだろうという孔子の言葉。両者に似ているものを感じるよ。

出世や名声のためだけの学問なんて不要だ。

老子18章の冒頭は「学を絶てば憂え無し。唯の阿と、相去る幾何ぞ。」

24章の中盤は「自ら見す者は明らかならず、自ら是とする者は彰らかならず。自ら伐る者は功無く、自ら矜る者は長とせられず。其の道に於けるや、余食贅行と曰う。」

当時は出世の為の学問をする人が多かった。口先だけのハッタリで出世しようとした連中も多かった。出世の為なら自分を売り込むためのアピールが過剰になる。ここを老子は「余食贅行」…無駄なものとして切り捨てている。

論語にも似た言葉があったね。

巻第三 雍也第十六 第13章「子、子夏に謂いて曰わく、女、君子の儒と為れ。小人の儒と為ること無かれ。」

学問は自己修養が目的であり、出世や名声の為にあるものではないという話。とても似てると思うんですよ。老子33章でも「自らを知る者は明なり。」と書かれている。

自分を理解する為には自己修養の為の学問が必要となってくるという事ですよ。試験勉強でも勉強やって模擬試験やらなきゃ自分がどこまで理解しているかなんてわからんでしょ。武道や格闘技も同じ。稽古やトレーニングを重ねてスパーリングや試合に臨む。そうして初めて今の自分の力がわかる。両者とも自己修養がベースになるわけですよ。

老子は学問そのものを否定していないと考えている。道を体得しろ。そうすればお前の無意識の動作一つ一つが多くの人を幸せにするという考え。第一、老子本人自身が学問を修めた知識人ですよ。そうでないと周王室の図書館の話なんて出てきませんよ。仮に周王室に勤務していなかったとしても相当するくらいの知識や学力がないと老子道徳経なんて書けませんよ。道家は戦乱の世に嫌気がさして隠遁生活を決め込んだ知識人階級です。戦乱の世に乗じて出世や名声を得るためだけの学問が嫌いなことは孔子老子も共通しているのは老子論語を読めばわかるでしょう。道家儒家徳治主義です。

 

長くなってしまったので、儒家道家についてついての話はもうちょい続けます。

暇つぶしくらいにはなるかもね。

 

 

続く