前回の続き
老子道徳経第70章から
老子道徳経 第70章
俺の言ってる言葉はわかり易く、行い易い。
だが、天下の人々は理解も、行動もできない。
俺の言ってる言葉には物事の根本が有り、行動は物事の根本をとらえた王道だよ。
だが、みんなそれを理解できない。だから俺の言ってる事もみんなわかってくれないということさ。
俺を理解してくれる人はとても少ない。だからこそ俺は貴重な存在なのかな。
聖人はね、ボロ服を身にまとっている外見で宝石のような心を持っているんだ。
第71章
知っていても知らないようにふるまっている態度は最上と言えるね。
知らないくせに知ったかぶりをしているのは困ったことだ。欠点だね。
この欠点を欠点としてひたすら認識するんだ。認識すれば後は直していくだけなんだから欠点で無くなるんだよ。
道を体得した聖人には欠点なんてない。自分の欠点を欠点としてはっきりと認識して直していく。だから聖人には欠点がないと言えるんだよ。
第72章
民が天の威光を畏れなくなり好き勝手やってたら必ず天罰が下るぞ。
「足るを知る」をわかってる人は、自分の居場所が狭いと思わないし、自分の生活を嫌がることもない。嫌がることが無いから天からも嫌がられることが無いんだよ。
だから道を体得した聖人は自分というものをしっかりとわきまえているので自分から目立つようなことをしない。自分自身を愛し抜き、自分が偉くて凄い人物だぞなんて驕り高ぶらない。
聖人は傲慢さを棄て去り、「足るを知る」を選択するんだよ。
第73章
積極的に物事を強行したがる奴は人も自分も殺してしまう。
消極的に物事を進めるのをモットーとする奴は人も自分も活かすことになる。
積極的に無理に進めると軋轢が生じて争いになるからね。
消極的ならば軋轢など生じず、のびのびと動けるもんだよ。
ということは、積極的と消極的…この二つを比べると消極的は利益をもたらし、積極的は害をもたらすわけだ。
天が憎むのは当然積極的に物事を強行することなんだけど、何故憎むかって理由はだれもわからないんだ。
道を体得した聖人であってもこの天の考えを難しいものだと認識している。
天の道は争わずして勝ち、何も言わずに万物の動きに対応し、わざわざ招かなくても自分のところにやってきて、ゆったりとしていて隅々まで行き届いている。
天の張った網は網目が粗いように見えるけど、なんにも漏らし落とすことは無いんだよ。
第74章
民が全てに絶望して死すら畏れることが無くなったら、死刑執行したところでなんの犯罪抑止効果があるっていうんだい?
民に死刑という恐怖を与えていて罪を犯した者を捕まえて死刑にしたとしても、殺す権限なんて人に有るのかい?
権限を持っているのは天だ。天が犯罪者に刑を与えて死に至らせるんだよ。
天に代わって人が死刑執行をするなんて、素人が名匠に代わって木を切るようなものだ。
斧の使い方もわからない素人が名匠に代わって木を切ろうとしたら怪我をするだろ?天に代わって人が死刑執行をすると、同じような結果を招くんだよ。
第75章
民が飢えるのはお上が税を取りすぎるからだ。だから民は飢える。
民を治めるのが難しいのはお上がやたらに多くの人為的な政策を出して政治をするからだ。
民が死を畏れなくなるのはお上が自分たちだけが充実した人生を送られることに執着しているからだ。だから民は死を畏れなくなる。
生きることだけに執着せず無為自然に生きる者の方が、やたらに生きることだけに執着している者よりも優れているということだよ。
続く