前回の続き
良書に触れよう。悪書から遠ざかろう。
今日、書店で「超訳」の老子を手にして読んだけど、雑すぎるよ。
老子道徳経第58章から
老子道徳経 第58章
無為によりぼんやりと見える政治を行っている時は、民は素朴でのんびりした民になるんだ。
民たちに対し常に目を光らせて監視している様な政治を行っている時は、民は心休められず落ち着きのない民になってしまうんだ。
災いだと思っているところに実は福が寄り添っていたり、福だと思っているところに災いが隠れていたりするんだね。
災いと福の巡り合わせ…これを見極められる人なんていない。
第一、絶対的に正しいものなんて無いんだよ。
君が正しいと思っていることが気がついたら奇怪なことに変わっていたり、善いと思っていることが妖しいものに変わっていたりするんだよ。
人がこの正や善が変化する世界に迷い込んでから長い年月が経過している。
だから道を体得した聖人は、自分がきっちりと正しくても相手を無理にきっちりと正しくしてやろうとはせず、自分が清廉であっても相手を無理に清廉にさせてかえって害になってしまったなんてことはせず、自分が真っすぐな性格であっても相手を無理に真っ直ぐな性格にしようなんてしないんだ。
自分が叡智の光で輝いていたとしても、相手を無理に輝かそうなんてことはしないんだ。
第59章
民を治め天に仕えるに当たっては、倹約をするにこしたことは無い。倹約の徳は道に早く帰ることのできる徳だよ。徳を積み重ねていく事こそ、早く道に帰り道を体得する方法なんだ。
徳を積み重ねた者に誰も勝てなくなっていた…こうなっていたら徳の力を無限に発揮できるだろう。ここまで来れば国を安泰にできるんだ。国を安泰にする根本とも言える倹約の徳は国を長く安泰させることができる。この根本を深く固く根付かせよう。元気に長生きする道となっていくんだ。
第60章
大国を治めるには小魚を煮るイメージでやるとちょうどいい感じになる。道に沿った無為自然の政治を天下で行おうとすれば鬼神の霊力にも邪魔はされなくなる。鬼神の霊力が無くなるわけではない。無為自然によって霊力が人を傷つけることができなくなるんだ。
鬼神が人を傷つけるだけでなく、無為自然の聖人も人を傷つけることはない。鬼神も聖人も民を傷つけない。両者の持つ徳のみが民に集まり天下は安泰となって民に平和な生活が訪れるのさ。
第61章
大国は例えるなら天下の水が交わる大河の下流だ。
大国は天下の女性とも言える。女性は静かで柔弱という無為自然の状態であるので剛強な男性に勝ってしまう。
両者とも遜っているんだよ。
だから大国が小国に遜っていれば小国は大国に心から帰属し、小国が大国に遜っていれば大国は小国に心から信頼される。
大国も小国もさらに遜ることで、より帰属や信頼を手にすることができるんだ。
大国は領土と民を増やしたいだけ。
小国は大国に護られたいだけ。
これ、大国が遜るだけで両者の願いが達成できるんだ。
小国が遜ってるだけで大国が傲慢だったらって考えてみなよ。小国だけが得をする結果になってるよね。大国は小国をひたすら守るだけ。大国が望む領土の拡大は達成できないんだから。
第62章
道は万物の奥深くに在って、善人にとっては貴重な宝となり、不善人にとっては自分を保護してくれる存在となるんだ。
その人が不善だとしても道はその人を絶対に棄てたりはしない。
天子を立てて三人の大臣を任命されたときには、宝玉と四頭立ての馬車を献上する者よりも、座ったまま道を献上する者の方が、遥かに勝っているんだ。
古の人たちが道を尊重した理由?
求めるものが有れば道によって得られ、罪が有っても道によって免れるという話を聞いたことはないかい?道は人を決して見棄てたりはしないから貴い存在なんだよ。
続く