哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

Laozi said so. 5:第21章~第24章

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

なんか止まらんな。はじめは「ふざけんな」という気持ちからだったけど、今は再認識したくてやっている。老子の言ってる当時と今もあんまり変わらないのが面白くてね。

老子道徳経第21章から

  

老子道徳経 第21章

大いなる徳って奴は、ただ道に従っているだけのことなんだよ。道はぼんやりとして見定め難い存在だ。ただそのぼんやりとした中に具体的には言えないけど、何かが存在しいることは確かなんだよ。深遠で暗いものの中に万物を生み出す精気があるんだよ。その精気は純粋な存在で偽りなんてものは混ざっていないんだよ。太古の昔から今にいたるまで、道は存在を失うことなく続いているんだ。道は万物の長とも言える。何でそんなことが判って言えるのかって?道の中にさっき言った「何か」を見つけたからさ。

第22章

 木は曲がっているからこそ伐られることなく木としての寿命を全うできる。生き物で一旦、曲がったような姿勢になることで前進する奴らがいるだろ?尺取り虫や蛙を想像してみろよ。窪地が有るからそこに水が溜まっていく。服が古くなって擦り切れてしまったら新しい服に取りかえる。つまらない中身の無い学問なんてたいして持ってなくても得られるものはいっぱいある。逆につまらない中身の無い学問をいっぱいやっているとあれこれと迷い戸惑ってしまうものなのさ。

だから聖人は道ただ一つを心に抱く。そしてこれが天下のお手本になるんだよ。変に目立とうとしないから、逆にいることが明らかになる。自分が絶対に正しいなんて主張しないから、逆にその正しさが認められる。自分の功績をアピールしないから逆にみんなにその功績が認められる。ひたすら謙虚な態度で争うような態度はとらないので、誰も彼に喧嘩を売ることはできないんだよ。

昔からの諺にある「曲がっていれば完全である」というのは間違いなんかじゃないぜ。真の状態で道に帰すってことだよ。

第23章

 言葉が少ないのが人として本来は自然なんだ。激しいつむじ風も午前中には吹き止む。激しいにわか雨も日をまたいで降り続けることなんてない。このつむじ風やにわか雨は誰が発生させるんだ?天地だろ?天地ですらつむじ風やにわか雨を長続きさせられないんだ。人に至っては尚更のことでしょうが。

だから道に従って生きる者は、相手が道の体得者ならば道に、相手が徳を持った者ならば徳に、相手が徳を失った者ならばその失った徳に対応するんだ。

道の体得者に道で従えば、相手も喜ぶだろうね。徳を持った者に徳で従えば、相手も喜ぶだろうね。徳を失った者に失った徳で従えば、相手は喜ぶだろうね。

信義や誠意が足りないから人は不信感というものを持つのさ。

第24章

つま先立ちして無理に背伸びをしている奴は長く立ち続けられない。大股歩きでのっしのっしと歩いている奴は長く歩き続けられない。

自分の存在をやたらアピールする奴は世に知られることなく終わるよ。自分が絶対に正しいとアピールする奴は世に認められることなく終わるよ。自分の功績をやたらアピールする奴はそれ以上の功績を上げられなくなるよ。自分の才能をやたらアピールする奴はみんなの上には立てなくなるよ。みんな過剰なアピールにうんざりして嫌われていくんだよ。

こういうのを道の観点から見てみよう。こういうのは食べ残しの物や余計な行動…無駄なものでしかない。万物はこういうものをとても嫌うんだ。だから道の体得者にさっき言ったようなアピール過剰な奴なんていないんだよ。

 

 

続く