哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

Laozi said so. 3:第8章~第15章

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

なんかペースを上げてきたくなってきた。

老子道徳経第8章から

 

老子道徳経 第8章

最上な善を何に例えようか…水だな。世のあらゆるものは水の恩恵を受けているが水はそいつらと意識的に争ったりしない。誰もが低い地位は嫌がるけど、水は高い所から低い所へと流れていくだろ?。だから「道」に一番近い存在なんだ。居場所は大地のように低いところがよく、、心は深海のように深く、人に与えても何の見返りも求めず、話す言葉には嘘偽りを交えず、政治は安定第一で取り組み、やる時はしっかりやって、動くときにはチャンスの時機をしっかりと見定める。こんな水みたいな生き方ができたら誰とも争わないから、誰からも咎められない。最高だよ。

第9章

器に水や酒を満たしてこぼす位なら、満たさない方がましだよ。武器を研いで鋭くすればすぐに刃こぼれしたり折れたりするぞ。家中を財宝でいっぱいにすると泥棒に狙われる。そしてこいつを守り抜く事なんてできやしない。富も地位も手に入れて驕り高ぶっていると、人から反感を買って恨まれて最後には碌な目にあうことは避けられないぜ。功績を上げてその名声を轟かせたら、その場から退きな。それが天からの道に合った生き方ってもんだよ。

第10章

魂を与えられた身体で心の中に道を備え、この状態から離れないようにするのがいいんだよ。気を養い柔軟になる…そう、いうなら赤子のような状態だ。心を洗い流して自分の間違いを取り去るんだ。民を愛してよく国を治めていてもそれが誰にも知られていない状態がいい状態なんだよ。万物の変化に対応するには地位だ名声だに凝り固まってる男連中より素直な女性のように従順に対応する方がいいんだ。あらゆることに精通していて頭が良くてもなんも知らん愚者のようにしてる方がいいのさ。道は万物を生み育てるのにあらゆることをするけど生んだものを自分のものにしたり、ことをなにかしても見かえりを求めず、育てても支配しようとしない。これが道の持つ深い深い徳…そう、玄徳っていうんだ。

第11章

車輪にある30本のスポークは真ん中の車軸用の穴に集まっているだろ。穴が開いているから車軸を通して車輪を回すことができるんだ。土をこねて器を作る。その時できた器の中はただの空間だからこそ水を注いだりして器として使えるわけだ。戸や窓用の穴をあけて部屋を作る。戸や窓の空間が有るから部屋として使えるわけだ。言いたいことは、形有って目に見えるものが役に立つのは形の無い目に見えないものがあるおかげだってことさ。

第12章

美しい色彩ってのは見るものを惑わせ物を見抜く心を奪ってしまう。美しい音楽には聞きほれてしまうけど、自然が出す音を聞き逃してしまうようになってしまう。旨い料理は気持ちよく食べられるけど、食べ物が本来持つ味を知ることが出来なくなってしまう。馬を走らせ狩りに行くと興奮して熱狂するけど、冷静さを失ってしまう。珍しい宝物を手に入れると、奪われてなるものかとお宝に執着して本来行うべきことが出来なくなってしまう。だから聖人は華美なものには目を背け腹を満たすことしか考えないんだ。人為的な心地よい刺激ってのは、人が本来持っている良さを奪ってしまう危険が有るんだよ。

第13章

人は栄誉や屈辱にいちいち驚き、降りかかってくる災いの源となる財宝を自分の身体のように大事にする。なんで栄誉を受けて驚き屈辱を受けて驚くんだろうね?人は栄誉を良いものとして、屈辱を悪いものとしてとらえている。そして手に入れては驚き、失っては驚く。だから栄誉を受けて驚き屈辱を受けて驚くんだよ。なんで災いの源となる財宝を自分の身体のように大事にするんだろうね?自分自身が存在するからだよ。自分自身が無ければこんなつまらんお宝に執着する必要がどこにあるんだい?このことを踏まえて言うぞ。こんなつまらんことに拘らずに本当の自然に沿って自分の身を大事にするように政治を行おうとする者に天下を託すべきなんだよ。本当の自然に沿って自分の身を愛するように政治を行おうとする者に天下を託すべきなんだよ。そういう人なら安心して天下を治めることを任せられるからね。

第14章

道というものはよく見ようとしても見えない。このことを「夷」…影も形も無いものとでも呼ぼうか。道というものは音で聞こうとしても聞こえない。このことを「希」…かすかな音すら出さないものとでも呼ぼうか。道というものは捕まえようとしても触ることすらできない。このことを「微」…実体のないものとでも呼ぼうか。つまり道の持つ夷、希、微は人間の視覚、聴覚、触覚を使っても究明することなんてできないんだよ。道は夷、希、微の三つがドロドロとなって一つになったものなんだよ。こいつは日向や日陰のように部分によって明るいところや暗いところがあるわけではない。限定されることが無く、決まりきった名前をつけられやしない。渾沌状態以外の何物でもないからね。これは形の無い形、姿の無い姿ってもんだよ。ぼんやりとしてとらえどころが無いんだ。前から見ようとしても頭が見えるわけでもないし、後ろから見ようとしても尻尾が見えるわけでもない。道は太古の昔から道として万物を生んで育み、万物の始まりを知っている。これが道の大綱や根本…そう、「道紀」って奴なんだ。

第15章

昔の道の体得者は、深遠で知るのが難しい道に深く通じているので、その人自身も奥深いから凡人ではその人を理解することができないんだよ。強引に例えるなら、慎重さは冬の川を渡るようであり、用心深さはご近所の人々に気を遣って暮らすようであり、内から出る威厳は客として家に招かれた人のような威厳を持って接客を受けるようであり、わだかまりの無さはまるで氷が溶けるようにあっさりとしており、誠実で飾り気のないところは、山から伐り出したばかりの新木のように飾り気がなく、何事も心を素直にして受け入れる態度は谷のようであり、多くのものが入り混じったものを受け入れる態度は濁った水たまりのようである。この濁った水を静かにしておき徐々に澄んだ水にしていくことが出来るのは道の体得者だけだ。これと同様にどっしりとして動かしがたいものを徐々に動かして新しいものに変え生み出すことが出来るのは道の体得者だけだ。道の体得者は自分がいっぱいに満たされることを望まない。満たされていないからこそ余力が有る。だから何度も挫けようが再生、復活ができるんだよ。

 

 

続く