目眩帳

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

凸凹大学校 2:大学 第二章

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

「大学」の第二章から

 

大学 第二章 第一節(全4節)

誠意を身に付けるということは、自らを欺かない事である。例えて言うならば悪臭を嫌うようにする。美しい色を好むようにする。これが心の動きに偽り、迷いがなく自らもその境地に満足することである。君子は必ず己自身の心の内を慎むのだ。

つまらない小人は、人目のつかない所ではどんな悪事をも働くものだ。後に小人は君子を見ると、そこで初めて自分の悪事を覆い隠し、善人であることをアピールする。人々がそのごまかしを見抜く力はその小人の心の奥底をあっさり見抜くほどなので、悪事をごまかして善人アピールすることなんて何の役にも立たない。だから君子は己自身の心の内を慎むのだけなのである。

曾子は「多くの目に見られている。多くの指に指されている。とても厳しいことである」と言った。財産は家を潤し、心の内の徳は己の身体をも潤す。心が広くなると身体もしっかりとする。心の中に誠意を持てば外面にも出てくるということだ。だから君子は必ず自分の心に誠意を持つのである。

第二段

詩経では「あの川のよどみを見ると綺麗な緑色をした竹が茂っている。才能あふれ輝く君子は切り出して、ヤスリをかけ、打ち叩き、砂で磨くように己の心を高める。その有様は、慎ましいが光り輝いている。才能あふれ輝く君子はいつまでもみなに忘れられない」と詠われている。切磋琢磨とは学んで己の身も心も整えることである。慎ましいが光り輝いているというのは、内省をしてかしこまり、礼儀正しく堂々としている様のことである。才能あふれ輝く君子はいつまでもみなに忘れられないというのは徳を積み素晴らしい善の境地にいる人のことは民たちはいつまでもずっと忘れることができないということである。

又、詩経には「ああ、先代の王達のことが忘れられない」とも詠われている。古の王達は賢者を賢者として抜擢し、身内を身内として親しみ、庶民は王達の楽しみを自分達の楽しみとし、王達が作った利益を利益として享受された。だからこそ、代が変わっても忘れられないのである。

第三段

書経では古の王達について以下のように書かれている。

「徳を天下に輝かした」

「天から与えられた素晴らしい命題をしっかりと受け止め正しく実行した」

「持っていた大きな徳を天下に輝かした」

殷の湯王が沐浴をする際に使うたらいにはこのような文が記されていた。

「一日過ごしたら新しくなれ。日々新しくなれ。その日毎に新しくなれ」

書経には、こうも書かれている。

「民たちを新しくなるよう育てよ」

詩経ではこう詠われている。

「周は古い国だが、下された天命は、新しい」

これが有るので君子はいかなる場合でも最高の善に従い行動する。

同じく詩経より。

「国の都から千里。この範囲こそ民が止まるべき範囲である」※一里は約400m(漢代)

詩経では

「美しい声で鳴く鶯は丘の隅に止まっている」

と詠われているも、孔子かく語りき「止まる時には止まるべき場所をしっかりと理解する。鳥にもできることだ。人ができないでどうする」

詩経では周の文王についてこう詠われている。

「立派な徳を持つ文王は、徳を輝かせながらも止まるべき場所におられて慎み深くされている」

君主としての徳は仁を標準とし、臣下としての徳は敬を標準とし、子としての徳は孝を標準とし、父としての徳は慈を標準とし、人として他の人々と付き合うときの徳は信を標準とする。

第四節

孔子かく語りき「訴訟を聞いて裁くのは、私でも他の人とは変わりがない。訴訟自体を無くす事ができる。これが他の人との違いだ」

誠実でない者がどんなに言葉を使って嘘偽りの申し立てをしても、そんなことは無駄であるとわからせ、民にかしこまる気持ちを浸透させる。これが誠意を持つ根本を理解しているということである。

 

 

続く