哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

中庸測量野帳 16:中庸復元測量 中庸第十六章

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

もう少しだ。頑張るぞ。

中庸第十六章から

 

 

第十六章 第一節(全2節)

孔子の話

「徳のない愚か者ほど、自分勝手なわがままを好み、位のない身分の低い者ほど、独断専行な行動を好み、今の世にありながら、無理やり古代でのやり方を復活させようとする。そういう者には災いが降りかかるものだ」

天子でなければ、礼の良し悪しを論議することも、法を定めることも文字を考えることも行わない。今では天下は車の轍の幅は統一され、文書に使われる文字も統一され、人々の行動の倫理も統一されている。天子の位に即位しても、それにふさわしい徳を持っていなければ、新たな礼楽を作るようなことはしない。天子としてふさわしい徳を持っていても天子の位でないのなら、これもまた新たな礼楽を作るようなことはしない。

孔子の話

「私は夏王朝の礼楽について話をする時があるが、その末裔である杞の国では当時の礼楽の証拠となるものが極めて少ない。私は殷王朝の礼楽を勉強しているが、その末裔である宋の国では、いくつか伝承が残っている。私は周王室の礼楽も学んでいるが、これは今、実際に用いられている。私は周王室の礼楽に従うとする」

天下の王として、徳と位とタイミングの三つを備えていれば、間違いをすることは、ほとんどなくなるだろう。

夏王朝や殷王朝の礼楽は、それが良いものであったとしても、証拠となるものが無いので信用が無い。信用が無ければ民たちは従わない。

新しいこれからの礼楽も、それが良いものであったとしても、位や尊厳が無ければ信用が無い。信用が無ければ民たちは従わない。

第十六章 第二節

それ故に聖人を目指す君子の道は、先程の徳と位とタイミングの三つを身に付け、民たちをよく見定めて、夏・殷・周代の聖王たちの考えと合わせて間違いが無いか、天地自然のあり方に背いておらず、占いによって鬼神の意向からも疑われず、百代後の聖人たちと比べてもおかしくないようにする。

鬼神の意向から疑われないというのは、天の理に沿っているということであり、百代後の聖人たちと比べてもおかしくないというのは、人の理に沿っているということである。

こうして、君子の振る舞いは何時の世でも天下の道となり、君子の行なったことは何時の世でも天下の法となり、君子の語った言葉は何時の世でも天下の模範となる。

遠く離れていても君子がいることが望み感謝され、近くにいても君子がいることが不快に思われ避けられることが無い。

詩経では

「彼(かしこ)に在(あ)りて悪(にく)まるることなく、此(ここ)に在りても射(いと)わるることなし。庶幾(ねがわ)くは夙夜(しゅくや)、以て永く誉(ほま)れを終えん」

と詠われている。

君子として、今まで述べた君子の道を守らず、天下に賞賛されたという者は、これまでに存在したことが無い。

 

 

続く