哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 8

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

老子 上篇 第二十四章

つま先立ちで立つ者は、しっかりと立つことが出来ない。大股で歩き続ける者は、歩き進めることが出来なくなる。自分を見せびらかす者を皆は良く見ようとはしない。自分が絶対に正しいと主張する者を皆は評価しない。自分をやたら誇る者に成功は無く、自分の成功を誇る者を皆は尊敬しない。それらは「道」で言うところの「捨てられる余り物の料理」というものである。万物は先程述べたものを疑い憎しむ。だから「道」の世界にいる者は「捨てられる余り物の料理」のような世界にはいないのだ。

第二十五章

姿形が定まっていないものが天地より先に生まれた。音や気配も無く、自分だけで成り立ち変わることも無く、天下を回り歩いても疲れない存在である。このようなものだからこそ天下の母と言えるだろう。私はその名を知らない。敢えて「道」と名付ける。強引に真の名に近づけて呼ぶとしたら「大」と呼ぶ。「大」とは通り過ぎていくことであり、通り過ぎていくことは遠ざかることであり、遠ざかることは帰ってくるということである。「道」は大であり、天も大であり、地も大であり、王もまた、大なのである。天下には四つの大があり、王もまた、その一つなのである。人は地を手本にし、地は天を手本にし、天は「道」を手本とし、「道」は自然を手本とする。

第二十六章

重い物は軽い物の根本となり、静かなことは落ち着きのないことの主体となる。この法則により優れた為政者は、終日旅をしても自分の荷馬車から離れたりしない。活気あふれる人や光景を見ても、のんびりとくつろぎ、世俗に心を惑わされたりしない。一万台の戦車(当時は戦闘用の馬車)を持つほどの君主たる者が天下を軽々しく扱うとどうなるだろうか。軽々しく扱えば、天下を治める根本を失い、落ち着きが無ければ君主の地位を失うことになる。

 

 

続く

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 7

前回の続き

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老子 上篇 第二十一章

大きな徳のある人の様子だが、ただ「道」に従っているだけだ。「道」は、ただぼんやりしており、ただかすかにしか見えない。かすかでぼんやりしているが、その中にはかたちがある。ぼんやりしていてかすかであるが、その中に実物がある。奥深く暗いものだが、その中に光がある。その光は偽りが無く、その中に誠実さがある。古より今に至るまで、「道」というものの名は消え去ること無く、我々の祖先達を通り過ぎて行った。私が何故「道」が祖先達を通り過ぎて行ったことを知っているのか。これは直感である。

第二十二章

古くからの言葉に「曲がったものには欠点が無い」というものがある。曲がれば真っ直ぐになる。窪みがあれば満たされる。服がぼろぼろになれば新しくなる。僅かな物しか持たない者は得ることになり、多くの物を持つ者は心が乱れる。だから聖人は全ての物の根元である「一」を心に抱き、天下のお手本となる。自分の存在をはっきりと示さないので、みんながはっきりと見分けることができる。自分を良しとしないので、人となりが世に明らかになる。自分を誇らないので、成功する。自分の成功を誇らないので、尊敬される。争うことをしないので、天下の人は聖人と争うことが無い。古の言う「曲がったものには欠点が無い」という生き方をする人が欠点の無いまま人生を終えられるのだ。

第二十三章

多弁で無いことの方が自然である。同様に激しく吹き荒れる風も翌朝に止まないということは無く、突然の雨も終日降り続けることは無い。これをやるのは誰か。天地である。天地ですら風や雨をいつまでも続けさせることができない。ましてや人なら、尚更のことである。「道」に従って行く者は、「道」と同化していく事だろう。徳に従って行く者は、徳と同化していく事だろう。徳の無さに従って行く者は、徳の無さと同化していく事だろう。「道」に同化していく者が出てくれば「道」はありがたく喜び、徳に同化していく者が出てくれば徳はありがたく喜び、徳の無さに同化していく者が出てくれば徳の無さはありがたく喜ぶだろう。信頼が足りないのは、信じることが出来なくなるような事をするからだ。

 

 

続く

俳句 2022年5月9日〜5月31日

自由律俳句

俳句

予定を変えよう詰め込みすぎだ(5/9)

 

免許更新で歳を重ねたことを感じる(5/13)

 

3時間で1章しか訳せない己の未熟さよ(5/15)

 

勉強後の一服の開放感(5/15)

 

赤羽から秋葉原の半日(5/16)

 

馬鹿だと聞かれたら馬鹿だとしか答えようが無い(5/21)

 

接種後の大きな反応は無くても気を抜くな(5/23)

 

腕と頭の痛みを抑えるロキソニン(5/24)

 

明日には出掛けたい程の今の和らぎ(5/26)

 

今日の外出新たな道の為(5/26)

 

明日に備えゆっくりと身支度(5/30)

 

心を落ち着かせろ新しい門を叩くのだ(5/31)

 

雑感

今の気持ちは豫譲や聶政の気持ちでしょうか。

そこまでかっこよくないけどね。

 

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 6

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老子 上篇 第十六章

虚しさの境地の極限に達し、静かであることを堅く守ることだ。万物がみな生じ盛んになるのを私は先に述べた二つのことによって万物が何処に帰って行く様子を眺めていく。草葉が茂り花を咲かせても、みなその根元に帰って行く。根元に帰ることを静けさと言い、これを天の定めに委ねると言う。天の定めに委ねることを平常と言う。平常を知ることを聡明と言う。平常を知らないと、道理に外れたことばかり行い、災難に遭ってしまう。平常を知る者は全てのものを包み容れることが出来る。これが出来る者は公平であり、公平な者こそ王であり、王である者は天である。天であるということは「道」である。「道」はいつまでも変わらないので「道」の体得者は死ぬまで危険に晒されることは無い。

第十七章

最も優れた君主は臣下達はその存在を知っているだけである。次の君主は臣下達は君主と親しみ君主の偉業を褒めたたえる。その次の君主は臣下達は恐怖や独裁政治によって君主を恐れるようになる。その次の君主は、臣下達に馬鹿にされている。信頼が足りないのは、信頼される行いをしていないからだ。物事に無関心な態度でいて軽々しい言葉は使わずに言葉使いを大切にすれば、事業は成功し、その成功について、民や臣下達は「自分達が成し遂げた事だ」と言うだろう。

第十八章

「道」が廃れてしまったので、仁や義といった教えが出てきた。知恵者が出てきてから、人々は悪だくみをするようになった。父子兄弟夫婦の不和が当たり前になったので、孝行息子が注目されるようになった。国が乱れているのが常になってきてから忠臣がもてはやされるようになった。

第十九章

英知を絶ちきり知恵を捨てよう。そうすれば民達の幸せは百倍になるだろう。仁を絶ちきり義を捨てよう。そうすれば民達は愛情や孝行を取り戻すだろう。物つくりの技術を絶ちきり商売の利益を捨てよう。そうすれば盗賊が現れることは無いだろう。前述の三つのことが実行された後、民達が不足を感じるようならば、民達に以下の物を持たせよう。何色にも染めてない白い絹布を纏わせて切り出したばかりの新木を持たせよう。そうすれば民達の我欲は少なくなり、物欲も少なくなるだろう。

第二十章

学問を絶ちきれば憂いは無くなる。「はい」という返事と「ああ」という返事では、どれほどの差があるというのか。善と悪とではどれほどの差があるというのか。「人が恐れることは、恐れないということはできない」とは言うが、恐れが潜んでいるであろう果てしない荒野を知り尽くすことは出来ないことだ。多くの人々は喜び、お祭りのご馳走を食べて春に物見台に登っているかのようだが、私は只一人動かず何かするという兆しも見せない有様は、まだ笑ったことの無い赤子の様である。疲れてぼんやりとしており、帰る場所も無く彷徨っている様である。多くの人は皆、余る程物を持っているが、私は只一人全ての物を失ってしまったかの様である。私の心は愚者の心の様である。私の心は鈍いのだ。世の人々は皆明るい気持ちだが、私は只一人暗い気持ちだ。世の人々は俗世間の事情に詳しく話しているが、私は只一人、心を塞いでいる。私の心は海の波の様に揺れ、空高く吹く風の様に止むことが無い。世の多くの人は皆、取り柄が有るとういうのに、私は只一人頭の鈍い田舎者の様である。私が只一人他の人達と異なっているのは「道」に養われることを自覚し、そのことを大切にしていることである。

 

 

続く

 

 

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 5

前回の続き

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老子 上篇 第十四章

視ようとしても見えないので、なめらかなものと名付けられた。聴こうとしても聞こえないので、ほんの僅かな音と名付けられた。手で掴もうとしても手に入らないので、とても細かいものと名付けられた。この三つのものは、追求し尽くすことが出来ないので、混ざり合って一つのものになってしまう。それは上に存在にしても宝玉のように照り輝くことは無く、それは下に存在していても暗いかどうかもわからない。絶えない状態に対しては名付けようも無く、何も無いところへ再び帰って行く。これを姿の無い姿、物としての形の無い物と言う。これをぼんやりとして朧げなものと言う。来るのを待っていても頭は見えず、後ろから追いかけても尻は見えない。古からの「道」を守って行くことで、今存在する事態を治めることができ、古からの物事の始まりを知ることが出来る。これが「道」の要点である。

第十五章

古の優れた人物は、奥深い「玄」に通じており、その奥深さは世間では認識出来なかった。この奥深さは認識できないものだが、強引であるがその姿態を述べてみようと思う。落ち着きっぷりは冬に川を渡るかのようであり、慎重さは四方から何か来ないか絶えず用心しているかのようであり、厳かな様子は人を訪問する客人のようであり、ゆったりした様子は氷の溶け始めのようであり、その手厚さは切り出したばかりの新木のようであり、明るい様子は綺麗な水が流れる渓谷のようであり、人物の底が見えない様子は濁った水をたたえた深い池のようである。濁らせてからゆっくりと静かに清くすることができるだろうか。落ち着きしずめて少しずつゆっくりと時間をかけて動かして生命力を再び与えることができるだろうか。この「道」を守り続ける者は、満たされることを望まず、満たされることは無い。それは全てを包み込み、新たに織る必要の無い大きな布のようなものである。

 

 

続く

 

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 4

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老子 上篇 第十三章

(一)

寵愛と恥辱は人を狂わせるものだ。名誉貨財という大きな患いを自分自身の様に大切にするという事である。寵愛と恥辱が人を狂わせるとはどういうことか。下の立場にいる者は、上からの寵愛を得ると心が乱され、寵愛を失っても心を乱される。これが寵愛と恥辱は人を狂わせるという事だ。

(二)

名誉貨財という大きな患いを自分自身の様に大切にするとはどういうことか。人が大病を患ったかのようになるのは、人に身体が有るからである。人に身体が無ければ病気に罹ることがあるだろうか。

(三)

だから、自分自身を大切にすることを天下の為に何かをすることよりも重視実践できる人にこそ、天下を任せることが出来るのだ。自分自身を愛することを天下の為に何かをすることよりも重視実践できる人にこそ、天下を託すことが出来るのだ。

 

続く

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 3

前回の続き。

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少しずつやってく。

 

老子 上篇 第九章

水を満たした器を手を持ち続けるのは、結局はこぼれてしまうので、やめるに越したことは無い。武器の刃を研いで鋭くしても、その鋭さを長く保つことは出来ない。財宝が大きな建物の中いっぱいになっても、財宝をしっかりと守ることは出来ない。富や高い地位故に驕り高ぶるなら、自ら災いを招き地位も富も失っていくだろう。成功を成し遂げたら身を退くのが天の道である。

第十章

地に留まるべきだが、実際には彷徨える魂をしっかりと鎮め続けられることが出来るだろうか。ゆっくりと深呼吸をして穏やかになり、赤子の様な境地になれるだろうか。幻想を洗い流し、欠点が無いように出来るだろうか。民を愛し国を治めていても、その事実を民に知られずにいられるだろうか。鼻で深呼吸するときに女性の様に柔軟でいられるだろうか。疑いの無い明らかな天下泰平の世であっても、何らかの政策を実行せずにいられるだろうか。ものを生み育て養っても、生み育て養ったものの所有を主張せず、何かを成し遂げても、今後はその成功をあてにはせず、皆の里長となっても、取り仕切ったりしない。これを「神妙な徳」という。

第十一章

30本のスポークが車輪の中央に集まり一つになる。スポーク間に空間が有るから車輪として使えるのである。粘土をこねて陶器を作る。陶器の内側の何もない空間があるから陶器として使えるのである。戸口や窓といった穴を空けて洞穴住居を作る。小口や窓の様な何もない空間が有るから、住居として使える。つまり、物が有ると便利であるが、物には何もない空間が有るから使えるのである。

第十二章

入りとりどりに描かれた美しい絵は、人から物事を見る力を奪い、複雑な音階で構成された美しい曲は、人から音を聞き分ける力を奪い、多くの調味料を巧みに使った旨い料理は、人から食べ物が本来持つ旨さを味あう力を奪い、土地を馬で駆け回る狩りは、人から冷静な判断力を奪う。入手が難しい宝物は、持ち主の行動の邪魔になってしまう。人はこの様な性分なので、聖人は人の内部を重視し、外からの感覚を重視しない。自然な行動をする為に、感覚頼りの外界を捨てて、自分の内部の精神を選び取るのである。

 

続く