哲学ナックルダスター

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

北渓字義ノート 50 二十 中和(2~7)

前回の続き

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北渓字義  二十章 中和 の続き

二十-2

『中庸章句』より

「中は天下の大本」

→渾然たるものが有り万物の道理が皆ここから出てくるので大本という。

「和は天下の達道」

→中にある大本が動き出し、あらゆる対応が道理に背くことなく、通用しないということがないので達道という。

二十-3

中には二つの中がある。

①未発の中→本性について。

②已発の中→事柄について。

已発の中

喜ぶべくして喜び、怒るべくして怒り、ちょうど程良く過不及でないのが中。

この中は「中庸」の和にあたる。

周敦頤の『通書』の「中なる者は、和なり」→已発の中を指している。

二十-4

書経』や『論語』に出てくる「允(まこと)に厥の中を執れ」の中

→みな、已発の中。発動して影も形もある状態になってはじめて執ることができる。

二十-5

礼記中庸篇』では喜怒哀楽の四つだけを挙げて和を説いているが、これは大綱を挙げているだけ。

実際には、内面から発動してきたものが理に悖ることがないのなら、それは全て和である。

二十-6

仏教の考え

喜怒哀楽などの諸々の情念を全て無くしてしまおうとする。

だが、無くす事はできない。

ただ正と不正があるだけ。

正しいもの→天理

正しくないもの→人欲

二十-7

中和の中

専ら未発に重点を置いている。

中庸の中

二つの意味を含む。

①心にある中

②事物にある中

朱子は中庸の二字を解釈する場合、必ずこの二つをあわせて

「不偏不倚、過不及なくして、平常の理」と説いた。

的確であり、完全である。

 

これで 二十章 中和 は終わり。

 

次は 二十一章 中庸 から。

 

 

続く

 

 

北渓字義ノート 49 二十 中和(1)

前回の続き

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北渓字義  二十章 中和(全7節)

二十-1

中和→性と情けについて説いている。

心の本体は性である。性が心の中に備わっている理以外の何物でもない。

理が外に出て動いたのが性。

中→喜怒哀楽が出ていない時の状態。この喜怒哀楽が出ていない時が性。

喜怒哀楽が出る

→喜は喜、怒は怒に偏り、中とは言えない。

未発の中→過不及では無い。

喜怒哀楽が出て、それらが皆、節度に適った状態が、和。

心の中にある道理が発動し、喜ぶべき時、怒るべき時に喜び怒り、道理に背いていないことが節度に適っているということ。

節度に適っている

喜怒哀楽の情が理に適っており、過不及が無く、道理に背いていないので和と名付けた。

 

 

続く

 

 

北渓字義ノート 48 十九 皇極(1~4)

前回の続き

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北渓字義  十九章 皇極(全4節)

十九-1

書経』で出てくる「皇極」

皇→君主のこと

極→一身を天下万民の至極の標準とすること

君主として中央の位置に立った場合に身を正して、四方の民の模範となるので皇極という。

君主としての徳

徳は至極のものになり、それ以上付け加えるものは無い。

孝→天下の孝を極め尽くす。

弟→天下の弟を極め尽くす。

徳がその至極の状態を極め尽くし天下万民が模範とする。

十九-2

詩経』で「我が烝民を立(粒)するは、爾の極に匪ざる莫し」と説き、更に大麦小麦について説いている。

后稷は民に農業を教え、民も后稷の教えを準則としていた。

十九-3

皇極→世界の大宝と言われる場合がある。

これは崇高な位について言っている。

天子の位

最高の位であり、四方の民が尊び仰ぎ、これ以上付け加えるものが無い。

なので大宝といい、また宝極とも言われている。

詩経』の「商邑は四方の極」

→商の都が天下の中央に位置することで四方の極となっており、四方のものが集まり、ここまで来るともうこれ以上はどこにも行けないということである。

十九-4

孔安国が皇極を大中と解釈して以来、みな孔安国の説に慣れ従い、古の人が皇極という文字の意味が全く分からなくなってしまっている。

 

これで 第十九章 「皇極」 は終わり。

 

次は 第二十章 「中和」 から。

 

 

続く

 

 

 

北渓字義ノート 47 十八 太極(4~9)

前回の続き

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北渓字義  十八章 太極 の続き

十八-4

太極は天地万物の理を統合するもの。

天地万物から太極を話して別に論じてはいけない。

天地万物から離れて理の存在を説くと、二つに分裂してしまう。

十八-5

天地万物が生じる以前に太極という理が有る。

この理は宙ぶらりんに存在していない。

天地万物の理があると、天地万物の気がある。

天地万物の気があると、天地万物の理は天地万物の中に完全に備わる。

周敦頤の『太極図』「太極動きて陽を生じ、静かにして陰を生ず」

動くという理があるので動いて陽を生じることが出来る。

動いて陽が生じると、理はすぐに陽動の中に備わる。

静かになるという理があるので静かになって陰を生じることが出来る。

静かになって陰が生じると、理はすぐに陰静の中に備わる。

理があれば気があり、気があれば理は完全に気の中に備わる。

理と気が接続するところは縫い目の様な裂け目は全くない。

程子は『河南程氏経説』で「動静端なし、陰陽始めなし」と説いているがまさにその通りだ。

もし、前後を区別することができるなら、一方に偏り渾然たる至極ではなくなってしまう。

十八-6

老子は『老子道徳経』で「道は天地の先に在り(第25章より)」と説いている。

道にこのような意味が無いと言う訳では無いが、老子は、天地人物から完全に離れて、別個の宙ぶらりんの道理を説いて、これ以後のものは皆粗雑であると説いてしまった。

十八-7

統合していう→渾然たる一理だけであり、一太極だけである。

区別していう→天地万物はそれぞれ理を備えており、それぞれに太極があり、全て渾然としており欠けたところが無い。こう考えると多くの道理が成立する。

万物について統合して論じる

万物の統一体は渾然としており、一箇の太極以外何物でもない。

人が理を受け取り自分の心に備え持つと、心が太極となる。

万事について統合していう→一理に他ならない。渾然たる一太極。

水銀に例えてみる

大きな水銀の塊はまん丸いが、散らばって数多くの小さな塊になってもまん丸い。小さな塊を集めて再び大きな塊にしてもまん丸い。

太極

天地万物の外にいながら、一方では天地万物の中にはたらいている。

永遠の過去に存在しながら、一方では永遠の未来に一貫して存在している。

太極の理のはたらきがあまねく行き渡るとどこもかしこも円満になり、どこにも欠陥が無い。

一か所でも欠陥があれば、偏ってしまい太極とはいえない。

太極の本体は本来は円満なもの。

十八-8

太極が極至である理由

至中、至明、至精、至粋、至神、至妙と、至れり尽くせりでこれ以上何も付け加えるyことが出来ないから。

なので強いて極と名付けた。

十八-9

周敦頤以前にも唐代の柳宗元や北宋の邵雍らが無極の説を唱えていた。

柳宗元や邵雍は気の視点から説いていた。

周敦頤は理の視点から説いていた。

 

 

これで 第十八章 「太極」 は終わり。

 

次は 第十九章 「皇極」 から。

 

 

続く

北渓字義ノート 46 十八 太極(1~3)

前回の続き

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北渓字義  十八章 太極(全9節) から

十八-1

太極

渾然たる至極の理であって、気や形で言えるようなものでは無い。

古の経書で太極を説いているのは『易』だけ。

周易』 繋辞上伝「易に太極あり」

易は陰陽の変化。

陰陽が変化する所以としての理が太極。

周易』 繋辞上伝「三極の道」

三極→天地人の至極の理のこと。

三極と名付けているのは天・地・人の中にそれぞれ一太極が備わっているということと、太極の霊妙なはたらきが天・地・人の中に一貫してはたらいていることを示す為。

他の諸子百家たちは皆、太極を具象化されたものと間違って説いた。

道は太極であり、道は理が通行するから道といい、太極は至極の極であるから太極ということを理解していない。

理が至極のものであるからこそ古今の人物が通行する。

古今の人物が通行するからこそ理は至極なもの。

二つの理があるわけではない。

十八-2

従来は太極の字義は不明であったが、周敦頤が『太極図』を作ってから、やっとはっきりした。

「無極にして太極」

無極→窮極がないこと。理には形状が無いということ。無味無臭と同じ。

太極→極至の甚だしいこと。理には形状が無いが 万物が天地によって育てられることは全て理を根底中枢としているということ。渾然としていて極至が甚だしいので太極と名付けた。

朱子の『太極図説解』

「上天の載(『中庸章句』から)」

→理からいったこと。

「声もなく臭いもなし(『中庸章句』から)」

→無極の二字の解釈。

「万化の枢紐、品彙の根柢」

→太極の二文字の解釈。さらに「太極の外、また無極有るにあらざるなり」と明確に結んでいる。

十八-3

太極は理からいう。

理をなぜ極というのか。

極は至(このうえなし)ということ。

極は真ん中にあるから枢紐(中心点)という意味を持ってくる。

皇極、北極→みな真ん中にあるという意味がある。

だが、極を安易に中(ちゅう)と解釈してはいけない。

常に物の真ん中にあり、四方のものはここまでやって来ると、みな極まって、もうそれ以上はどこにも行けない。

北極は四方の星座が皆動いても、北極だけは動かない。

太極

理についてのこと。

天が永久に運行し続ける。

地が永久に存在し続ける。

人や物が永久に生まれ続けることを止めない。

それぞれが勝手にやっているのではなく、全てこの理が真ん中にあって主宰しているので自然にそうなっていくという、渾然たる極至の状態にあるので太極と名付けた。

天地万物の理が全て集まり太極までやってくる

→皆、極点まで達して、それ以上は全く行くところがないので分散して天や地、人や物になると、みなそれぞれつり合いがとれて少しも欠けたところが無い。だから太極という。

 

 

続く

 

 

北渓字義ノート 45 十七 徳(1~3)

前回の続き

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北渓字義  十七章 徳(全3節) から

十七-1

道→天地の中にある本然の道なので人が工夫するところから論じない。

徳→徳の本然の道を行ない、本当にわが心に得たものが有るので人が工夫するところから論じる。

人が工夫して既に到達しているところについて論じる。

工夫によって本当に自分が得たものについて論じる。

今まさに工夫ををしている時に論じるもので無い。

十七-2

礼記』の「徳は得なり」のように、「得」から離れることは出来ない。

古の経書

多くの場合、工夫をして何かを得ることだと説いている。

一方、本源来歴について論じている場合もある。

『大学章句』の「明徳」

人が生まれた時、天から得たもの。本来は光明の理が人の心に備わっているという事。

『中庸章句』の「達徳」

古今天下の全ての人の心が、全く同じように得ているものの事。

孟子』の「懿(い)徳」

天理という純粋で美しいものを得ているという事。

『中庸章句』の「徳性」

人間が天から得た正理の事。

『中庸章句』の「天徳」

天からの理が公共のものとして天にあるという事。

天道のはたらきがあまねく行き渡り、万物がはたらきを得る事も天徳という。

人について論じるならば

人が天の理を得て生まれるのも天徳。

行為が純粋に天理の真を得ており、偽が少しも混じっていないのも天徳。

十七-3

道と徳

はっきり区別できるような二つのものでは無い。

道→公共のもの。

徳→本当に我が身に得て、自分の所有物になったもの。

 

これで 第十七章 「徳」 は終わり。

 

次は 第十八章 「徳」 から。

 

 

続く

北渓字義ノート 44 十六 理(1~3)

前回の続き

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北渓字義  十六章 理(全3節) から

十六-1

道と理→ほぼ同じもの。

二字に分けている以上は区別する必要がある。

道→緩やかで永久に人が通行するもの。

理→確実で、確定していて永久に易(かわ)らないもの。

理には姿形が無い。

事物に備わっている当然の法則が理である。

「則」→準則・法則のこと。確定していて変わらないという意味がある。

事物に備わっている当然そうしなければいけないところが「当然」。

ちょうど程良く、少しの過不及がないのが「則」。

以下『礼記』より

「君と為りては仁に止まる」→仁に止まるのが主君になった者の当然の則。

「臣と為りては敬に止まる」→敬に止まるのが臣下となった者の当然の則。

「父と為りては慈に止まり、子と為りては孝に止まる」

→慈と孝が父となり子となった者の当然の則。

「足の容は重し」→重々しいのが足の姿形の当然の則。

「手の容は恭し」→恭しいのが手の姿形の当然の則。

「尸の如くす」→座った時の当然の則。

「斎するが如くす」→立った時の当然の則。

古の人の格物窮理

事物について当然の則を窮めようとした。

当然そうしなければいけないところ、ちょうど程良く、少しの過不及がないところを窮め尽くしたにすぎない。

十六-2

理と性を対比する

理→物に備わっている理。

性→人に備わっている理。

物に備わっているもの→天地人物の公共の道理。

人に備わっているもの→個人個人の所有しているもの。

十六-3

理と義を対比する

理→本体。

義→理の作用。

理→物に備わっている当然の則。

義→理に処していくための方法。

だからこそ、程子は「物に在るを理と為し、物に処するを義と為す」(『周易』艮卦彖伝程子易伝 より)。と言った。

 

 

これで 第十六章 「理」 は終わり。

 

次は 第十七章 「徳」 から。

 

続く