目眩帳

主に東洋古典を自分の言葉で噛み砕いてくブログ。たまに俳句を詠んだり、他の記事も書きます

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 13

前回の続き

kamata-ei.hatenablog.com

現在、老子(中公文庫版 小川環樹訳注)をベースに漢和辞典と助字小字典を使いながら自分なりの現代語訳を作っています。

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下篇に突入。最後まで頑張るぞ。

老子 下篇 第三十八章

上等な徳は意識しないからこそ徳として有り続ける。下等な徳は徳に固執しすぎるから結果として徳では無いのである。上等な徳は何かをしようと意識しなくても何も成し遂げないということは無い。下等な徳は何かをやろうと躍起になっても成し遂げられるものは何も無い。上等な仁は何かを成し遂げてもそれを意識しない。上等な義は成し遂げた事を強く意識する。上等な礼は行動しても礼に応じない相手に対しては腕を引っ張ってでも従わせようとする。このような事であるから、道が失われた後に徳が出てくる。徳が失われた後に仁が出てくる。仁が失われた後に義が出てくる。義が失われた後に礼が出てくる。礼は心のこもっていない忠や信でしかなく、物事の混乱のきっかけとなる。吉凶を予見できることは知恵者にとっての光栄であることが愚かさの始まりである。危険や心配と無縁な者は厚みのある場所を居場所とし、薄っぺらい場所にはいない。実のある場所を居場所とし、煌びやかなだけの場所にはいない。このようなわけで、吉凶の予見なんかとは離れて「道」や上等な徳に従うべきなのである。

第三十九章

古に根本の原理である「一」を体得したもの達、例えば天は「一」を体得して清らかになり、地は「一」を体得して安らかになり、鬼神は「一」を体得して霊力を持ち、谷は「一」を体得して谷川の水を満たす。万物は「一」を体得して生まれる。王や諸侯は「一」を体得して天下の長となる。これらがこのようになったのは「一」のおかげである。天が清らかでなかったら裂かれるだろう。地が安らかでなかったら崩れるであろう。鬼神に霊力が無ければ消えてしまうだろう。谷川の水が満ちていなければ干上がってしまうだろう。万物が生まれなければ滅んでしまうだろう。王や諸侯が長でなくなったら国々が倒れてしまうだろう。「高貴なものは賤しいものを根本とし、高い場所は低い場所を基にして存在する」とは良く言ったものである。このような事により、王や諸侯は自らを「孤児」、「やもめ」、「貧者」と名乗るのである。これが賤しいものを根本としているからでは無いとでも言うのか。そんなことは無いであろう。だからこそ最高の名誉は名誉がないことであり、平凡なものの中で宝石の様に存在したり、ただ硬い石だけの様に存在することを望まないのである。

第四十章

戻ってくるのが「道」の動き方であり、弱いことが「道」の有用性である。天下の万物は「有」から生まれるが、「有」は「無」から生まれる。

 

 

続く

 

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 12

ブログタイトル変えました。なんか疲れてるから。

前回の続き

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老子 上篇 第三十六章

相手を萎縮させるには必ず一旦、相手を勢いづかせる。相手を弱めるには必ず一旦、相手を強くさせる。相手を滅ぼすには必ず一旦、相手を繫栄させる。相手から何かを奪う時は必ず一旦、相手に何かを与える。これを「こっそりとした明らかさ」と言う。柔軟で弱いものは硬くて強いものに勝つ。魚は深い水の底から抜け出してはいけない。国が持つ鋭利な武器は人に見せびらかしてはいけない。

第三十七章

「道」は常に何かをすることは無いが、それによって何もなされないということは無い。もし、諸侯や王がこの「道」の原則をしっかりと守っていれば、万民は自ら安らかな暮らしをしていくだろう。安らかな暮らしからはみ出したい者が出てくるなら、私はこれを「道」を用いて安らかにさせるのだ。「道」は人も欲が無いようにすることができる。人に欲が無く静かになれば天下は自然に安定していく。

 

 

上篇はこれで終わり。次回からは下篇です。

 

続く

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 11

前回の続き

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老子 上篇 第三十三章

人を正当に評価できる者は知恵者であるが、自分自身を正当に評価できる者は聡明な者である。人に勝つ者には力があるが、自分自身に勝てる者こそが本当に強いのである。余計なものを求めずに今の自分の現況に満足できる者こそ真に富める者だと言える。努力して行動する者には強い意志がある。自分のいるべき場所を見失わない者は、いつまでもそこに存在することができる。長寿な者は危険に遭わないように生きるので身体の一部を失わずに完全な肉体のままの状態で死ぬのである。

第三十四章

大いなる「道」は、漂うだけである。「道」は左にも右にも行くことが出来る。万物は「道」に頼って生まれ育っていくが、「道」はそのことを拒まない。「道」は何かを成し遂げても自分の手柄としない。万物を包み込むように養い育てても自分の所有物だと主張しない。常に無欲であるものを小さなつまらないものと名付けられるだろうか。万物がその身を委ねるにも関わらず、万物の所有者であることを主張しないものならば、大いなるものと名付けるべきであろう。「道」は自らは大いなるものと主張しないからこそ、大いなるものに成るのである。

第三十五章

「道」を心にとらえ続けられる者には、天下がその者を目指してやって来る。そして、やって来ても何の害も無いのだ。そこは安らかで穏やかな落ち着いた世界である。美しい音楽や旨い食事は道行く旅人の足を止める事に対し、「道」が発するメッセージは、とてもあっさりしていており、何の味わいも無い。見ようとしても見るほどのものでは無いし、聞こうとしても聞くほどのものでは無い。だが、「道」が発するメッセージは使っても使い尽くせないほどのものなのである。

 

 

続く

 

 

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 10

久々の更新

前回の続き

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老子 上篇 第三十章

「道」を用いて君主を助ける者は、戦争で天下に力を示そうとしない。そのような事をすると、自分に行ったことが跳ね返ってくるという強い傾向が有るからだ。軍隊のいる場所は、後にはトゲだらけのイバラの木が生える。大きな戦争が有った後には必ず凶作の年がやってくる。優れた将軍は戦果を挙げてもそれ以上は戦果を挙げようとはしない。むやみに地を占領したりしない。戦果を挙げても誇ってはいけない。戦果を挙げても余計に人を殺してはいけない。戦果を挙げても驕り高ぶってはいけない。戦果を挙げてもそれ以上は貪らずにそこで止めておく。戦果を挙げても勢力を広げようとしてはいけない。元気で気力が有る者も老いて行くのだ。戦果を挙げてもやってはいけないことをするのは「道」とは言えない。「道」といえないものはすぐに終わってしまうのだ。

第三十一章

(一)

そもそも優れた武器というものは不吉な道具である。これを嫌う者もいる。だから「道」の体得者はこれを持ち続けない。

(二)

諸侯たちは平常時は自分たちの左側を大切にし、武器を使う時は自分たちの右側を大切にする。武器は不吉な道具であり、徳の有る立派な人が使う道具ではない。どうしても使わなければならない時は欲の無い静かな心でいるのがとても良いであろう。勝利をしても賛美しない。勝利を賛美する者は人殺しを楽しんでいる人の様なものだ。人殺しを楽しむ者の志が天下に広まることなど出来ないであろう。

(三)

めでたい時の行事の際は左側を大事にし、不吉な事が起きた時に対応する際には右側を大事にする。副将軍は左側に配置し、大将軍は右側に配置する。これは葬式の際の礼儀作法と同じである。

(四)

人を殺した数が多ければ、深い悲しみの気持ちで泣くように。戦いに勝利した者は葬式の礼儀作法に従って対応するようにするべし。

第三十二章

「道」はいつまでも変わらないが、名前が無い。切り出したばかりの新木は、それが小さなものであっても、天下にこの新木に匹敵するほどの優れた臣下はいないであろう。王や諸侯たちがこの新木を失わない様に持ち続けるならば、万物は自ら従ってくるだろう。天地は一体となり、めだてい甘露の雨を降らせるだろう。民は命令されなくても、自分達から進んで整っていくだろう。新木は加工されて道具となって始めて名前が付けられる。名前が既に付けられたのなら、その道具は道具としての使い方を限定させるべきだということを知るべきだ。使い方を限定させることを知ることで、自分への危険を避けることができる。「道」の天下での在り方を例えるならば、川や谷川の細い水の流れがやがて大河や大海に辿り着き集まるようなものである。

 

 

続く

 

俳句 2022年5月9日〜7月31日

だいぶ間が開いてしまった。

ツイッターでつぶやいた自由律俳句

5月

5月9日
予定を変えよう詰め込みすぎだ

5月13日
免許更新で歳を重ねたことを感じる

5月15日
3時間で1章しか訳せない己の未熟さよ

5月15日
勉強後の一服の開放感

5月16日
赤羽から秋葉原の半日

5月21日
馬鹿だと聞かれたら馬鹿だとしか答えようが無い

5月23日
接種後の大きな反応は無くても気を抜くな

5月24日
腕と頭の痛みを抑えるロキソニン

5月24日
明日には出掛けたい程の今の和らぎ

5月26日
今日の外出新たな道の為

5月30日
明日に備えゆっくりと身支度

5月31日
心を落ち着かせろ新しい門を叩くのだ

6月


6月2日
ツイッターなど適当にやっとけ

6月5日
無いものは無いので次の手を打つしかない

6月6日
帰宅しながら俺に出来ることを考える

6月7日
出勤直前の目眩とか勘弁してくれ

6月7日
頭痛がどうした恩師との再会だ

6月7日
果てなき連歌の楽しさよ

6月8日
飯を食べたので少し勉強しよう
6月9日
午後から陽よ照ってくれ

6月9日

外出の為の身支度を一気に整えよう

6月10日
帰宅前に一服している

6月10日
投資をするから種銭回してくれ

6月14日
頭痛の原因は中か外か

6月14日
頭痛で仕事もろくにできぬ無能さよ

6月16日
頭が重いのは天気のせいにしたい

6月17日
それでも俺は生きている

6月18日
お願いだから心に凪よ来い

6月19日
雑談でゆっくりギアを入れていく

6月20日
遺影に供えた一杯のウヰスキー

※昨日の父の日

6月26日
暫く文字から離れたい

6月27日
ながらスペースで一句詠む

7月


7月1日
深夜のお供は焼酎とキムチ

7月2日
拳から逃れられぬ否求める

ファイトクラブより

7月9日
支えてくれる人に報いたい

7月12日
病が治る階段はいつ登りきれるのか

7月13日
俺にヨブ程の信念は無し

7月19日
仕事を終えたが何かやるか休むか

7月20日
今日の仕事も片付けてやるぞ

7月20日
目のまわり過ぎにも程がある

7月21日
結局は道具にこき使われているだけだ

7月21日
岩を穿つほどの力も無し

7月24日
ベランダから見る青空と曇り空

7月28日
時を告げるからくりの調べを聴きながら帰る

7月31日

年齢だけはベルーシもリーも超えた

 

 

また次回

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 9

前回の続き

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老子 上篇 第二十七章

優れた旅をする者は、轍や足跡を残さない。優れた発言をする者はその発言に欠点が無く咎められない。優れた計算をする者は計算道具を使わない。扉を閉める事に優れた者は閂を使わないが、その扉をこじ開けることは出来ない。物を結ぶ事に優れた者は縄を使わないで結ばれた物を解きほぐすことが出来ない様にする。このような感じで聖人は、いつも人を救うことが出来る。だから聖人は人を見捨てることは無い。いつも多くの物を救うことができる。だから物を見捨てることは無い。このことは、聡明を繰り返すことと、言われる。従って、善人は不善の人には手本となり、不善の人は善人が動くきっかけとなる。その手本を大切にせず、その動くきっかけを愛さないのならば、知恵者と言えども大いに迷うだろう。これが物事の本質の重要なところであると言える。

第二十八章

剛強を知った知って上で柔弱であり続けられば、天下が集まる谷となる。天下が集まる谷となったら、不変の徳は離れなくなり、赤子の様な状態に戻ることが出来る。輝かしいことを知った上で、人目につかないことを守り続ければ、天下の手本となる。天下の手本となれば、不変の徳を間違えることが無く、無限の境地に戻ることが出来る。栄光を知った上で、恥辱を何とも思わなければ、天下の大河となる。天下の大河となれば、不変の徳は充足し、新木の状態に戻ることができる。新木はバラバラになると多くの器となる。聖人は新木からできた器を使い、役人たちの長となる。まさに「巧みに肉を切り分ける者は、儀式の時に必要な内臓を傷つけるようなことはしない」とは上手い言葉と言えよう。

第二十九章

天下を獲り治めようとする者が、途中であきらめる様子を私は見たことが無い。天下は神聖なものであり、何かできるというものでは無い。何かをしようとする者は敗れ、天下獲りに固執する者は多くのものを失う。あるものは行き、あるものはその後につき従う。あるものは緩く息を吹き、あるものは強く息を吹く。あるものは強く、あるものは弱い。あるものは積み上げるも、あるものは崩してしまう。この法則に従い、聖人は度を超すことから離れ、贅沢から離れ、驕り高ぶることから離れる。

 

 

続く

 

3の壁を越えろ 老子現代語訳に挑戦 8

前回の続き

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老子 上篇 第二十四章

つま先立ちで立つ者は、しっかりと立つことが出来ない。大股で歩き続ける者は、歩き進めることが出来なくなる。自分を見せびらかす者を皆は良く見ようとはしない。自分が絶対に正しいと主張する者を皆は評価しない。自分をやたら誇る者に成功は無く、自分の成功を誇る者を皆は尊敬しない。それらは「道」で言うところの「捨てられる余り物の料理」というものである。万物は先程述べたものを疑い憎しむ。だから「道」の世界にいる者は「捨てられる余り物の料理」のような世界にはいないのだ。

第二十五章

姿形が定まっていないものが天地より先に生まれた。音や気配も無く、自分だけで成り立ち変わることも無く、天下を回り歩いても疲れない存在である。このようなものだからこそ天下の母と言えるだろう。私はその名を知らない。敢えて「道」と名付ける。強引に真の名に近づけて呼ぶとしたら「大」と呼ぶ。「大」とは通り過ぎていくことであり、通り過ぎていくことは遠ざかることであり、遠ざかることは帰ってくるということである。「道」は大であり、天も大であり、地も大であり、王もまた、大なのである。天下には四つの大があり、王もまた、その一つなのである。人は地を手本にし、地は天を手本にし、天は「道」を手本とし、「道」は自然を手本とする。

第二十六章

重い物は軽い物の根本となり、静かなことは落ち着きのないことの主体となる。この法則により優れた為政者は、終日旅をしても自分の荷馬車から離れたりしない。活気あふれる人や光景を見ても、のんびりとくつろぎ、世俗に心を惑わされたりしない。一万台の戦車(当時は戦闘用の馬車)を持つほどの君主たる者が天下を軽々しく扱うとどうなるだろうか。軽々しく扱えば、天下を治める根本を失い、落ち着きが無ければ君主の地位を失うことになる。

 

 

続く